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リレーインタビュー 第17回 豊田浩さん(中編)

「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々、指導者として現在ご活躍の方々のインタビューをリレー形式でご紹介しています。今回は、空手道の指導歴36年、三田体育会理事、一般社団法人三田空手会理事、国際武道大学 非常勤講師の豊田浩さんにお話を伺いました。

来年行われる東京オリンピックで初めて正式競技になった空手道。一般に「空手」と呼ばれるものは、大きく分けると、琉球王国で発祥し、昭和の初めに日本の武道として正式承認された伝統派空手と、昭和39年に設立された極真空手に代表されるフルコンタクト空手があります。

オリンピックに採用されたのは伝統派空手で、二人で相対して戦う「組手(くみて)」と、先人が各種の場面を想定し、技術鍛錬として作り上げた攻防を演武する「形(かた)」の2種目があります。「組手」は原則、相手の皮一枚で止める「寸止め」というルールの下、競技時間終了時に多くのポイントをとった方が勝ちとなります。また、「形」は、で、それぞれの動きが持つ技の意味の理解、立ち方や技の正確性、パワーやスピード、バランスなどが判定される競技です。

※東京オリンピックの空手競技については以下をご参照ください

https://tokyo2020.org/jp/games/sport/olympic/karate/

豊田さんは、慶應義塾幼稚舎時代に空手を始め、大学空手部では主将として活躍、全日本学生日本代表チームの一員として海外遠征も経験しました。卒業後は銀行勤めのかたわら、選手も続けながら母校の指導に当たり、最近では、試合に勝つための指導だけでなく、内外で空手道の伝統とその奥深い技、精神を伝える指導も行っています。豊田さんのこれまでの道のり、将来の展望を前・中・後編の3回にわたってご紹介します。

 (2019年10月 インタビュアー:松場俊夫、河崎美代子)

前編はこちらから↓
リレーインタビュー第17回 豊田浩さん(前編)

――指導を始められた頃、とまどったことはありましたか?

指導を始めた頃は「自分はコーチだから」というよりも、今までと同じように学生たちと一緒に練習しながら体を貸すことが私の役目だと思っていました。ですがその後、体が思うように動かなくなってきた時に自分が何をするべきか、初めてとまどいを感じました。30代半ばぐらい、コーチになって10数年が経ち、国体強化選手から退いた頃です。今思えばあれが自分のターニングポイントでした。

――指導のやり方や思いはどのように変わりましたか?

昔の監督やコーチというのは偉い立場の方で、近寄り難い感じがありましたが、自分は卒業後すぐに指導者になったので、まず、学生に近い指導者、監督の通訳をするような役割を目指しました。次のステップは自分が監督になった時で、どのように指導をするか、どのように身体で表現し、話をすれば学生たちが理解してくれるかを考えるようになりました。ホッケーの安西さんとも指導について情報交換をしましたし、書物を読んで勉強もしました。試行錯誤の連続でした。

監督として現場の指導をしていた時にしていたことは、極力、選手に自分で考えさせることです。試合中は瞬時に自分で考えなければなりませんからね。当時は、半分ぐらい話せば、あとは選手が自分で考えていました。

 しかし空手の世界はティーチングが主流なので、先輩に「甘いんじゃないか」とご指導を受けたこともありました。コーチングは時間がかかりますし。状況によっては、合宿して24時間選手を見るといったティーチングがいい部分も確かにあります。

――当時大切にしていたポリシーはありますか?

学生の言葉をちゃんと聞くことですね。適当に流すのではなく、しっかり聞くこと。その上で自分の意見を言います。「でもね」と。私がキャプテンだった時、監督が私とよく話をしてくれたので、私も同じようにキャプテンとよく話をしました。 

私は3年生の時、突然、部の指揮を執らなければならなくなった時期がありました。状況を把握しないで入れ代わり立ち代わりやって来るOBの言う事だけを守って指揮を執っていました。ですが、その監督と出会い「もっと考えようぜ。お前はこの部をどうして行きたいんだ」と言われたことで変わりました。監督は、空手のみならず色々な話をしてくれましたし、食事や飲みに連れていってくれることもありました。その時にコミュニケーションの重要性を実感し、その後のベースになりました。

その監督から突然、ボブ・アンダーソンの「ストレッチング」という本を渡されて、「これを読んでおけ」と言われたことがありました。誰もが「ストレッチって何?」という時代にです。当時は最新の指導スタイルで、その方もいち早くコーチの資格を取られていました。私が22歳の頃です。あの出会いは非常に大きく、その監督は私のロールモデルにもなっています。

それからだいぶ経ち、マスターズの選手になった頃は、現場の指導を離れていたのですが、改めて選手になることで選手の気持ちを思い出しました。指導を長くやっていると選手の気持ちをわかっているつもりでも、実はわからなくなっていることがあります。一回戦を緊張しながら待っていたり、試合と試合の合間に疲労困憊したりすると、こういう時にはどういう指導が必要かに気づくのです。実際、マスターズの試合で監督をやって下さる先生方は多くを語りません。「豊田さん、今はここに注意ですよ」と瞬時に判断できる、必要な一つか二つのことしか言いません。そういう意味で選手もやった方がいいと思うのですが、監督やコーチが試合で学生の前で負けるのを見せるのは、あまり良くはないかもしれません。

――試合に出る選手の指導とそれ以外の指導は別物とのことですが、どのように切り分けていますか?

試合が終わると試合以外の指導をするのですが、その時は「空手道は一生である」ことを常に伝えるようにしています。試合のために教えていることは、空手の大きな部分でありますが、ほんの一部分でもあります。空手はたとえ遊びでもいいからずっと続けるもの。好きだったらやめる理由などないのが空手なのです。空手には実に様々な技があって、これをやれば勝てるというものはありません。「空手を続けることは、食べたり寝たりするのと同じこと」、「空手にはこんな世界がある。その奥に何があるのか、今はわからなくても、経験していくうちにわかってくるものが必ずある」と伝えています。

――豊田さんにとって空手の魅力とは何でしょうか。

すぐできること、一人でできること、様々な人とつながりが持てることですね。やりようによってはどこでも練習することができます。頭の中で形をイメージすればそれが練習になります。私が教わっている松濤館という流派には二十箇条というのがあり「空手は礼に初まり礼に終ることを忘れるな」といった実に日常なことを戒めています。それを続けることに意味があるのだと思います。今日は練習したくない、辛くてやめたいと思うことはいくらもあります。ですが練習に行くと爽快になりますし、試合で負けても勝っても、昇段審査に受かっても落ちても、またやりたくなります。とにかく少しずつでもよいので続けることが大事なのです。

私にとって空手は生活そのものと言ってもいいと思うのですが、空手を通した出会いや関わりから様々な影響を受けたことが一番大きいです。空手をする人には実に色々な人がいるわけですが、本当に純粋な人に出会うことが多いです。OBの練習に行くと、技術や体力の違いはあっても、みな一生懸命練習しており、練習後にはその方々と色々話をするのですが、それが私の最大の財産です。また、試合後に相手の方と話をすると全然違う世界が見えることがあります。苦楽を共にした後の、ラグビーのノーサイドのようなものです。一緒に道衣を着て拳足を交える、勝ち負けが決まる、その瞬間に何ともいえない世界が広がります。

もちろん1対1で向き合うのは怖いです。寸止めとはいえ、様々な人と勝負するわけですから。ですが、その怖さや、自分の弱さと向き合うには練習しかありません。自分が弱いから空手をする。弱い人ほど空手を続ける。一生使わない技を一生かけて修練するのが空手だと教わりました。(後編に続く)

(文:河崎美代子)

後編はこちらから↓
リレーインタビュー第17回 豊田浩さん(後編)

〇 豊田 浩(とよだ ひろし)さん プロフィール

昭和36年 東京生まれ。58歳。

昭和58年 慶應義塾大学を卒業。

三菱信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)入社

平成27年 白百合学園中学高等学校 に出向ののち転籍(事務長)

現在 慶應義塾体育会空手部で昇段審査委員として指導、国際武道大学では非常勤講師として授業を受け持つかたわら、選手としても活躍中。

令和元年9月には、日本スポーツマスターズ岐阜大会組手4部で3位入賞、形2部5位入賞。

<資格>

(公財)全日本空手道連盟 錬士6段、地区組手審判員

(公財)日本スポーツ協会 空手道コーチ

<主な指導歴>

昭和58年~平成7年 慶應義塾体育会空手部コーチ、助監督、監督を務める。

平成5年~平成11年 神奈川県空手道連盟強化コーチ

〇 一般社団法人 三田空手会

https://www.keiokarate.com/mitakaratekai

〇 公益財団法人 全日本空手道連盟

https://www.jkf.ne.jp/