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リレーインタビュー 第8回 及川晋平さん(前編)

「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々、指導者として現在ご活躍の方々のインタビューをリレー形式でご紹介しています。日本ウィルチェアーラグビー連盟強化副部長 三阪洋行さんからバトンを引き継いだのは、2016年リオデジャネイロパラリンピックで、車椅子バスケットボール男子日本代表のヘッドコーチを務めた及川晋平さんです。

16歳のときに骨肉腫で右足を切断、22歳で車椅子バスケットボールを始めてすぐアメリカに留学した及川さん。アメリカでハイレベルの指導を受けるうち、当時ノウハウがなかった日本で、その考え方ややり方を伝えたいと強く思うようになりました。帰国後は、選手として、指導者として活躍する一方、アメリカで体験した車椅子バスケットボールキャンプを日本でもスタートさせ、現在は日本代表チームを率いると同時に、若手育成にも力を注いでいます。

及川さんの「哲学」、「可能性と選択肢」、そして今後の「挑戦」について、前・中・後編の3回にわたってご紹介していきます。 

(2017年1月 インタビュアー:松場俊夫、河崎美代子)

◎はじめに、指導者になられたきっかけについて教えていただけますか?

車椅子バスケットボールを始めた20代の初め頃、私は千葉ホークスというチームにいました。常に全国優勝を目指すレベルのチームでしたが、ただそこにいるだけでは将来につながらないという思いもあり、更なる成長を目指し、アメリカに留学しました。

病気で高校を中退したため、大検を取ったのですが、大学に行くかどうか迷っていたところでした。当時は、障害に対するコンプレックスもかなりあり、「かわいそうな人」になりたくないとか、自信をもって生きるにはどうすれば良いかとか、色々考えていました。また、足を切断したことを人に気づかれないようにしていたので、「ちょっと足を怪我して」などとつくろうのに大変でした。その頃、車椅子バスケットボールに出会ったのです。最初は正直受け入れられなかったのですが、実際に見てみたとき、「障害があることを認めた上でのスポーツ」という点に動かされた気がします。「またバスケに出会えた」と感じました。そこで「コンプレックスを払拭し、生きていくことに自信を持てる自分になりたい」と、日本の大学に入るのではなくアメリカに留学することに決めました。

まずは英語の勉強から始め、カレッジに通いながら近くにあったNBA傘下の車椅子バスケットボールチームに入りました。ある車椅子バスケットボールのキャンプがあったので参加したところ、有名なコーチが一つ一つ指導してくれたことに驚きました。日本の車椅子バスケットボールはまだリハビリの延長のスポーツでしたから、ノウハウが確立していませんでした。先輩から学べという世界です。初代の先輩たちは試行錯誤しながらひたすら一生懸命「自分で」やってこられたので、人に教えることが難しかったのだと思います。ところが、アメリカのキャンプは楽しむことに一生懸命で、仲間もできる上に、これをやればうまくなれるという図が見える場所でした。学び、実践し、習得するにつれ、日本でチームの仲間たちに伝えたら楽しいだろうな、伝えたいなと思うようになったので、彼らをアメリカのキャンプに呼び、通訳をしながら教えるようになりました。そうしたことを、私は選手時代からよくやっていたのです。2000年のシドニーパラリンピックに選手として出場した翌年の2001年、ついにアメリカからコーチを招聘して日本でキャンプを開くことをはじめます。

そのうち、自分が選手としてプレイするよりも教えるほうがチームは強くなるということに気づきました。北京パラリンピックが終わった頃のことです。プレイすることがただの自己満足になってしまっていて、たまに試合に出ても活躍できないこともありました。自分が教えることで、楽しみながらみんなが学んでいくのが快感でしたから、もう選手として登録しなくていいと思うようになったのです。自問自答はしましたが、葛藤はありませんでしたよ。もっとプレイしたい自分もいるにはいたのですが、コーチの自分が選手の自分を見たときに「こいつは使えないな」と思った瞬間があったのですよ。どんどん身体がなまっていくわけですが、自分の身体を鍛えるための時間を取るのは指導する立場として無責任だと考えるようになり、コーチングから離れられなくなりました。

及川さん1「写真提供:エックスワン」

◎指導者として最初にやったことは何でしたか?

当時はとにかく楽しかったですね。楽しいから一生懸命やるというサイクルは、私にとって非常に価値がありました。例えば、ゲームをやる人の中には楽しいので朝までやるという方がいますよね。ですが、日本のスポーツにはそれが少ない気がするんです。やれば楽しくなる、楽しいからやる、という流れがないのです。ですから「自主的に」やりたくなる、そして強くなる方法を教えるところから始めました。「こうしたらうまくなる、できるようになる」と伝えることで、「うまくなりたい」という気持ちを育てて、成功すればほめられる、ほめられれば楽しくなる、そんな風に苦しくも楽しく成長するチームをめざしました。コンテンツは、キャンプを通して知り合ったマイク・フログリー氏(注:アメリカ イリノイ大学 車椅子バスケットボールチームの元コーチ)に教わった「ベーシックス」です。

私が提供できるのは「教える」ということですが、それによって仲間ができたり、他のことができたりする、そうした広がりと楽しみこそが大切なのです。車椅子バスケットボールに魅力を感じ、車椅子バスケットボールを選び、車椅子バスケットボールをやる、そのことで一人一人が成長できる環境を作りたいと思いました。

◎及川さんにとって、車椅子バスケットボールの魅力とは何ですか?

どんなことでも、上達することや変わることは楽しいものです。私はそれを車椅子バスケットボールでやっただけです。仲間と一緒に目標を立て、がんばり、達成するというプロセスは楽しいですし、その中で何かを発見したり、特に障害をもって間もない人の場合、自信をつけていくということが何よりの魅力なのです。

それは、車椅子バスケットボールでなくても良かったという意味ではありません。車椅子バスケットボールが好きだからやっているわけで、このように考えるようになったのも車椅子バスケットボールについて色々考えたからです。

年に一回、イリノイ大学でコーチングクリニックがあるのですが、そこで「あなたの哲学は何ですか?」と尋ねられました。私にとって初めての経験だったのですが、そこに来ている人はみな、それぞれの哲学を語っていて驚きました。「私の哲学は何だろう」と考えるようになった時、 “maximizing potential”という言葉が自分の価値観の中心にあると思うようになりました。どんな場合でも、目の前の一人一人のポテンシャルを最大限に引き出すことを考えて、決断、判断をしていくということです。

今では車椅子バスケットボール以外のことに関しても、同じように考えるようになっていますが、経験とともにその言葉が明確になってきたような気がします。私には勝ちに対するこだわりがあまりなく、そう言うと「誤解を与えるからやめた方がよい」と言われるのですが、プロセスを飛ばして勝ちに行くことには、非常に違和感があるのです。私は、結果にこだわる以上にプロセス、一人一人のポテンシャルを引き出すことにこだわっていると言う方がよいかもしれませんね。

◎そこに至るまでにはさまざまな変遷があったと思うのですが、いかがでしょうか?

そうですね。私が骨肉腫というガンになったのは16歳の時で、その後4回転移して、5年間も入退院を繰り返し、生死の境をさまよいました。普通なら死んでしまう人がほとんどなのですが、赤ひげ先生のような情熱的な先生に出会い、普通あまり使わない薬も使ってくれたおかげで、いまこうして生かしてもらっているのです。常に病気と向き合う日々、身体の中のガン細胞が大きくなったらアウトという時間の中で、自分自身はどうあるべきかを考えました。どうすれば病気にならずにすむのだろうと、病気にならない生き方をする自分を探し続けました。

そして行き着いたのが、いつも充実している自分、いつも挑戦している自分、常に変わっていく自分、前へ前へ進む自分、そんな自分を作ることが病気から逃れることなのだ、という考え方でした。ですから、英語力も先の保証もないまま、車椅子バスケットボール世界一のアメリカに留学したのです。

それは「死」とも関係していたと思います。自分の目の前に突然できた「壁」を乗り越えないという選択肢などありません。病気に追いつかれてしまうからです。病気の発見からまだ5年経過していない、生きられるかどうかわからないという境目でしたから、自分で挑戦すると決めたことに対して「やらない」とあきらめることは、つまり、ある種の恐怖でもありました。

アメリカではあちらの大検のような試験も受けなければなりませんでした。もちろん全部英語で11科目もあって大変でしたが、やるしかないので必死で勉強しました。ここで頑張れば英語も話せる、アメリカの文化もわかるようになる、「障害があっても英語が話せれば自信がもてるなあ」なんて思いながら、そんなカッコイイ自分の姿を追いかけました。変わることや挑戦することに迷いはありませんでしたね。

留学したばかりの頃、住んでいたシアトルから東海岸のフィラデルフィアまで全米選手権を観に出かけ、優勝チームのキャプテンに「一緒にやりたい」とお願いしたところ、すぐに「練習生を探している」と受け入れてくれました。すぐに、チームのあるカリフォルニアでホストファミリーと大学を見つけるために奔走しました。アメリカでは病院に通っていましたし、親も大変だったと思いますが、目の前にチャンスや希望が生まれたらすぐにチャレンジする!という気持ちだったのです。車椅子バスケットボールとの出会いが、前に突き進む気持ちを後押ししてくれる根拠となったのは確かですね。

そのような経緯があったからこそ、“maximizing potential”という哲学にたどり着いたのだと思います。

◎及川さんご自身が出会いを掴みに行ったということですね?

チャンスは掴まないと損だと思います。私の場合、物事が順調に進んだので、いろいろな意味で守られていると感じていましたが、もちろん、すべて成功していたわけではありません。それでも前に進めたのは、自分の成長に強いこだわりを持っていて、絶対にそれがしたいというeager、熱心さがあったからなのでしょう。それが選手の可能性を引き出すことにもつながったのだと思います。アメリカという国は、自分からアクションを起こし誰かと話すことで次につながる国、チャンスを掴むたびに前に進む国です。そう思いながら、変化し成長していくことに意識を集中させて日々を暮らしていました。(中編につづく)

(文:河崎美代子)

中編はこちらから↓
リレーインタビュー 第8回 及川晋平さん(中編)

後編はこちらから↓
リレーインタビュー 第8回 及川晋平さん(後編)

【及川晋平さん プロフィール】

1971年4月20日生まれ

千葉県出身/在住

16歳のときに骨肉腫で右足を切断。

22歳で車椅子バスケチーム「千葉ホークス」に入団し、車椅子バスケを開始(持ち点4.5)。翌年には米国に留学し、シアトルスーパーソニックス、フレズノレッドローラーズで活躍する。

2000シドニーパラリンピック 男子車椅子バスケットボール日本代表

2012ロンドンパラリンピック 男子車椅子バスケットボール日本代表

アシスタントコーチ

2015年車椅子バスケットボール国際大会「2015IWBFアジアオセアニア チャンピオンシップ千葉」男子日本代表ヘッドコーチ

2016リオ・デ・ジャネイロパラリンピック男子車椅子バスケットボール日本代表

ヘッドコーチ

2001年から車椅子バスケットボールキャンプを主催。

現在はNPO法人「Jキャンプ」で若手育成にも注力している。