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リレーインタビュー 第7回 三阪洋行さん(後編)

「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々のインタビューをリレー形式でご紹介しています。今回、中竹竜二さんからバトンを引き継いだのは、日本ウィルチェアーラグビー連盟強化副部長を務める三阪洋行さんです。

リオデジャネイロパラリンピックで、ウィルチェアーラグビーは初の銅メダルに輝きました。三阪さんはアシスタントコーチとしてメダル獲得に貢献、2020年の東京パラリンピックに向けて、多忙な日々を過ごしていらっしゃいます。

三阪さんがコーチとして学び続けてきたこと、目指しているもの、そして将来に向けての意気込みを、前・中・後編の3回にわたってご紹介していきます。 

(2016年11月 インタビュアー:松場俊夫、河崎美代子)

前編はこちらから↓
リレーインタビュー 第7回 三阪洋行さん(前編)

中編はこちらから↓
リレーインタビュー 第7回 三阪洋行さん(中編)

◎コーチをしていて苦しいこと、辛いことは何ですか?

準備が一番辛いです。最も大切なことなのでなおさらです。試合終了の笛が鳴って初めて評価されることをやっているわけですから、出口のない迷路にずっと入ったままのようなプレッシャーを感じます。これなら大丈夫だろうと思っても、納得できるところに行き着いたことは数えるほどしかありません。対戦相手によって戦い方は変わりますから、映像を切り取っての分析の作業もありますし、時間との戦いもありますし。とにかく自分のベースを作り上げることと、チームを勝たせることの同時進行でやってきました。

戦術や戦略は、プレーヤー時代からある程度、頭の中にありました。それをベースに、カナダ人コーチのアダム・フロスト氏から受け継いだもののうち、あてはまるものを選びながらチームに合うように組み立てていきます。提案と修正の積み重ねです。そういう点でクリエイティブになりきれていないところもあり、まだまだ追いかけているところというのが正直なところです。

また、プレーヤーの障害によってバリエーションが多くなるので、当然準備する量も多くなります。ですからアメリカンフットボールは何度も観に行きました。ウィルチェアーラグビーはアメリカンフットボールの要素が強いですから、タックル、道を開けるためのブロッキング、ワイドレシーバーの1対1の時のはずし方は非常に参考になりました。ランニングバックの道のあけかたや、スピンムーブ、どれぐらいターンすると相手から離れられるか、など随分多くのことを学ばせていただきました。アメリカンフットボールの人がコーチに入ってくれるとバリエーションが多くなるので助かります。特にプレーヤーに数字を示すことはとても説得力があります。

三阪さん4

◎ コーチとしての今後のビジョンは何でしょうか?

ヘッドコーチとして代表チームに関わってみたいという気持ちは、やはりありますね。ただその舞台に立てるかどうかは自分だけの力だけでは難しく、まだ力不足であることは事実です。ですが、辛さに負けてやめるのだけは嫌です。力を養う段階から2段も3段も飛ばして、いわば突貫工事の状態で代表コーチを務めた2年間でしたから、もう一度クラブチームなどでじっくり向き合う時間を持ち、改めて自分がどんなコーチなのかを見極めたいと思っています。その先に、アシスタントコーチとしてポイント的にプレーを教えるのがいいのか、若手の開発・育成が適性なのか、コーチとしての素質が見えてくるような気がします。

◎スポーツを通して世の中や人々にどんなインパクトを与えていきたいですか?

障害者スポーツに特化して言うと、私の場合、怪我の原因はラグビーでしたが、先の人生や生活の不安を変えてくれたのもラグビー、スポーツだったわけです。スポーツは自分を追究するためのもの、プロであれば名誉を勝ち取ったり、記録を残すためのものですが、決してそれだけではありません。健常者アスリート、障害者アスリートと歩んで来て感じるのは、健常者と違い、途方に暮れている障害者がスポーツという方法を発見した時、その人の人生が新しいステージに進むということです。障害者スポーツには、再び社会に戻っていけるという、健常者スポーツ以上の可能性があると思います。

実は今、動き始めていることがあります。少し前に大阪の高校でラグビー選手が事故に遭ったのですが、事故から1年半も経って監督さんから連絡があったのです。私は「私のようなモデルケースがあるのにどうして同じことを繰り返しているんですか」と、恩師である事故当時の監督をされていた方に怒り混じりに問いました。事故にあってもこういう生き方があると自分なりに示してきたつもりなのに、これはいけないと思いました。日本ラグビーフットボール協会の方に直接訴えかけ、今年11月より当協会の安全対策委員に就任させて頂きました。事故後のサポートをするネットワークを作りたいと提案させていただきました。私は事故の当事者だっただけでなく、家族の様子も見ていましたし、次のステップを探す際に影響を与えてくれる方、色々なことを教えて下さる方に出会った経験を持っています。ですから、障害者スポーツを始めるのはセカンドキャリアを作ることなのだと伝えていきたいと思っています。

まず、事故が起きた時、すぐに連絡してもらいます。ウィルチェアーラグビーも色々な地域に根付き始めているので、その人が住む地域のコンタクト先を教えることが可能です。そしてメンタル面のコンディションやそれまでの選手経験を聞いて、どのようにすすめていくかを検討します。中途障害者の場合、障害受容、つまり障害を受け入れて生活できるかどうかが非常に大きなテーマになるので、その前後の段階でのサポートもします。実際にそうしたプロセスを経てきた私たちウィルチェアーラグビーのプレーヤーが、それぞれの地域でしっかりとコミュニケーションできる状況を作ります。

もし怪我をしたとしても、すぐに相談できる場所が地域にあり、十分な情報を得ることができて、次に進んでいければ、新たなプレーヤー誕生につながります。もちろんラグビーがすべてではありませんが、次に向けての視野を広げてあげられるのではないでしょうか。自分だけで咀嚼するのが難しい、落ち込む時間、悩む時間、受容の時間といったものに対しても、良い導き方ができるのではないかと思っています。

私はプレーヤーとして3回、コーチも含めれば4回パラリンピックに行くという貴重な経験をすることができました。目指す場所があり、夢中になれるものがあるとまわりの様々なことも充実していくものです。障害者はそうした軸があったほうが自分の幅が広げやすいと思います。様々な面でネガティブになりがちで、本格的に社会に出る時には不安もありますが、私は軸にラグビーがあったので、環境を広げられたのだと思っています。

「ウィルチェアーラグビー観ました。自分でもできるでしょうか?」という声を聞くことがあります。その気持ちを大切にしたいです。ここ数年で競技力もぐっと上がり、結果につながってきています。いまは追い風が吹いていますから、東京パラリンピックまでどう過ごすかが重要ですね。

◎指導者を志す方たちにメッセージをいただけますか?

私自身、コーチが向いているのかどうかもわからないうちに、とりあえずやってみるというところから始まりましたが、そこで思ったのは、参考にすべき監督像やコーチ像の見直しです。実際コーチになってみると、決断や判断、責任などは当然のことですが、既成のコーチ像にあてはまらないことがたくさんあります。すでに確立しているトップコーチの場合は、トップダウンでも良いのですが、私たちのようなキャリアが浅いものが学べる場が満足にないのであれば、例えば、プレーヤーとコミュニケーションを取りながら、その中でコーチというポジションを実行していくような方法もあっていいのではないかと思います。

「こうあるべき」という先入観を持って入ると、気持ちが進まず、苦しいことばかりになってしまいます。しかし、プレーヤーと共にいると、様々なことができるということがわかりました。日本では監督とプレーヤーの間の隔たりが大きい場合が多く、私も実際そうした関係でやってきたわけですが、そうしたロールモデルができてくれば、後進の人はやりやすくなるのではないでしょうか。私自身、自信が持てるのはプレーヤーと良い関係を作れることです。大事なところで力を貸してくれますし、彼らに確証がなくても、私を信じて実行に移してくれる人たちがいてくれます。すべて自分で抱えてしまわず、話し合うことでコーチのありかたが学べたように思います。

来年の4月に、仙台を拠点に東北と関東混合のチームを立ち上げる予定です。そこでヘッドコーチとプレーヤーを兼任しながら、色々と失敗も経験するつもりですし、もしプレーヤーが集まったら専任コーチとしてマネジメントしてみようかなと思っています。そして、そこでの自分の体験や方法をシェアする、もし日本代表チームのヘッドコーチにトップレベルの方が来たら、その考えを全体に落とし込む、そこにプラスアルファを加えていく。また、いつまでも海外のやり方を取り入れるだけでなく、データが集まったら、我々なりの新たな形を作りたいと思っています。今後はよりクリエイティブなことがやっていきたい、そんなステップに来ているように思います。マインドはもうコーチになってきています。 (了)

(文:河崎美代子)

【三阪洋行さん プロフィール】

ウィルチェアーラグビー日本代表アシスタントコーチ。

ウィルチェアーラグビーチームBLAST(千葉)所属。 高校生の時ラグビーの事故で頸髄を損傷し車椅子生活に。 ウィルチェアーラグビーと出会い、日本代表として3 大会連続でパラリンピック出場。昨年より日本代表アシスタントコーチに就任。先日行われたリオパラリンピックでは銅メダル獲得に貢献。自身の経験を生かし、障害者への認識・理解 を上げる活動に取り組んでいる。

【略歴】

・1981 年 大阪府東大阪市に生まれ。

・布施工業高校ラグビー部3年生の時に、練習中の事故で頸椎を損傷し車いす生活になる。 ニュージーランドに 4 カ月ラグビー留学。

・2003 年 ウィルチェアーラグビー日本代表に初選出

・2004 年 アテネパラリンピックに日本代表として出場

・2006 年 カンタベリーに所属しニュージーランドリーグに参戦

・2008 年 北京パラリンピックに日本代表副将として出場

・2010 年 サウスオーストラリア・シャークスに所属しオーストラリアリーグに参戦

・2011 年 バークレイズ証券入社

・2012 年 ロンドンパラリンピックに日本代表副将として出場

・2015 年 日本代表アシスタントコーチに就任

・2016年 リオパラリンピックにアシスタントコーチとして参加し銅メダル獲得に貢献

☆日本ウィルチェアーラグビー連盟 公式サイト