「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々、指導者として現在ご活躍の方々のインタビューをリレー形式でご紹介しています。今回は、トヨタ車体BRAVE KINGSのテクニカルディレクター酒巻清治(さかまききよはる)さんにお話を伺いました。
酒巻さんは湧永製薬ハンドボール部(ワクナガレオリック)でプレーし、日本代表としても活躍、現役引退後は湧永製薬を皮切りに、2005年、トヨタ車体の監督に就任、2008年~2012年まで日本代表チームの監督も務めました。
1985年、ドイツへのハンドボール留学で世界への目が開いたという酒巻さん。海外の優秀な指導者との出会いを機に、理想的な指導者のビジョンを描きながら、「指導とは何か」「指導者とは何か」を常に考え、学び、実践して来ました。
より強くなるための様々なチャレンジ、これからのスポーツ界における指導者のあるべき形など、酒巻清治さんの熱い「指導者論」を前・中・後編の3回にわたってご紹介します。
(2018年12月 インタビュアー:松場俊夫)
前編はこちらから↓
リレーインタビュー 第14回 酒巻清治さん(前編)
香川監督は良い指導者です。頭もいいですし、私より優れた指導者になるでしょう。12年前、私がここトヨタ車体に来たのは廃部の危機にあった時でしたが、今は強豪の一つと言われるまでになったので、もうそろそろピュアな企業スポーツに早く譲ったほうがいいなと思っていたのです。また、湧永製薬時代から監督を経験してきて、これまで話したこと(注:前編を参照)に取り組むには監督では無理だとも思っていました。特に、代表チームでチームマネージャーをしていた1年にそれを強く感じました。香川監督とはずっと一緒にやってきましたので、私が監督をやるよりも監督である彼と協力してやっていく方がもっとよくなると思ったのです。
現在は指導者を育てようとは思っていませんが、若い指導者に「こういうことをしてみたらどうだ」と、強制的にではなく、何となくヒントを見せているところはあります。その上で何にチャレンジするのかは自分で決めればいいのです。私がいることの効果を自分で見定めながら、チームが勝つためにはどうすればいいかを考えれば、それが指導者の育成にもつながると思います。実際、香川は優れた監督なので助かっています。彼が私と同じ年代になったら、私以上の指導者になっているのは間違いないです。
私の好きなコーチに、ケント・ハリー・アンダーソンというスウェーデン人がいます。19年いた湧永製薬を2004年に退社してスウェーデンに行ったのですが、彼に会いたいと思い、同じスウェーデン人である、元日本代表監督オレ・オルソン氏に相談したら紹介してくれたのです。ケント・ハリーは当時ドイツブンデスリーガのトップチーム「SGフレンスブルク-ハンデヴィット」の監督でした。チームにはラース・クリスチャンセンというスター選手がいたので「彼のような選手が欲しいねえ、彼のような選手を持ってみたいね」と言ったら「それはまちがいだ」と言われました。「もし今の君が監督なら、ラースを得ることはできないが、ラース以上の選手を育てることは可能だ」と。「そうでないとコーチの存在の意味がない」と真顔で言われました。
チームの活動に真摯に取り組むことです。夜遊びをしないとか酒を飲まないというようなことではなく、もちろんそれは好ましくはありませんが、真摯に競技に向き合い、チームを勝たせること。正しい方向に導かなければいけません。また、様々なことに出会った時に蓋をせず、積極的に吸収することも必要です。それから、今後は語学が必要になります。ITを受け入れるのも最低限の英語力がないとできません。自然に身についていくと思いますが、自分も英語に触れているうちに、国際大会のプレスカンファレンスに参加できるぐらいになりました。当時は私のような人間は少なかったのですが、今後は語学が不可欠でしょう。
ビジネスの世界と同じだと思います。「価値と勝ち」「value and victory」。ビジネスも目的はただの金儲けではなく、物や人を作ることです。サステナビリティが高い組織であれば、次につながっていくことになるでしょう。収益についてはビジネスの方がシビアだと思いますが、方向の目指し方は同じです。
今思えば、小中学生の時からまわりには、かっこいい体育の先生や指導者、「この先生の前でうそはつけない」という良い意味での怖さのある人が多かったですね。そのことも影響しているかもしれません。
私は、若い時にはまじめにトレーニングに取り組むタイプでしたから、キャプテンをやらさられることもありました。後輩と一緒にトレーニングをする時に「こうやったほうがいいよ」とアドバイスしますよね。すると本当に伸びるのです。そういうキャリアが積み重なっていきました。
社会人になってから一番インパクトが強かったのは、オレ・オルソン監督です。1996年、一緒に仕事をした時、指導者とはなんとすばらしい仕事なのだろうと思いました。オルソン氏はどちらかというと古く厳しい指導者だったのですが、トレーニングの時でもピシッとしている、ジャージも靴もピシッとしていて、スリッパを履いたままということもないし、髪の毛もひげもだらしないところが一つもないのです。
また、1990年にグッドウィルゲームズという民間レベルのオリンピックのような大会で見たアメリカ選手団も、ナショナルトレーニングセンターで見たバスケットボールのコーチもみなピシッとしてかっこよかった。その後、アメリカのコーチたちはその競技がなりわいになっている、人生を懸けていることを知ったのです。リーダーは道を示す者でなければならない。だから周りからリスペクトされるべく所作や振る舞いが大切なのです。。
では日本のハンドボールの世界ではどうか。残念ながら、心から選手やチームのことを考え、高い社会性を持つコーチはなかなかいませんでした。ですから自分はそうあろうと思ってやって来ました。今では逆に選手の中に「彼らとやりたい」と思わせる者が出てきています。オリンピックで彼らが活躍する姿、そんなイメージが頭に浮かんできます。
2000年に代表チームのコーチから湧永製薬に戻ったのですが、当時の練習は今思えばひどいものでした。ある日、選手は集中していないし、練習があまりにひどいので、電気を消して「帰れ」と告げ、練習を止めました。翌日に生かすために映像を録っていたのですが、後で見てみて驚きました。私のやり方は100%間違っていました。なのに私は選手に八つ当たりしていたのです。「今までもずっとこうだったのか、プログラミングからおかしいではないか、なぜこんなことしていたのか」と何度も映像を観ました。「これはいけない」と思い、家に帰ることができませんでした。頭の整理がつかず、翌日のトレーニングはやらなかったと思います。選手に対してはかなりの時間、動揺した感情を出さないように、極力普通に振る舞っていました。
間違っていたのはこのような点でした。練習で選手がミスばかりすると、要望通りやっていないように見えます。集中力がないという判断をしてしまいます。ですがそうではなかった。そもそも、練習のプレーの選択、設定が間違っていたのです。選手は苦しみながらやっていたのです。思いましたよ。「間違えていたのは自分だ。アプローチもウォーミングアップも。これはあかん」と。
でもそれからは変わりました。今では当たり前のことなのですが、トレーニングのプランをしっかり作り、何か起きたときのリスクマネジメントのために別案も用意しました。さらに時間をかけて準備していくうちにそれが楽しくなりました。これをやらせたらこの選手は変わるかもしれない、と様々なプランを夜な夜な考えていました。
特に努めたのは、トレーニングの内容を始める前に再度明確にすることでした。選手は大変だったと思います。湧永製薬は終業後、6時くらいから練習が始まるのですが、昼休みに選手を集めて15分くらいミーティングをしました。「今日の練習はこれでスタートするよ」と。くりかえしやるようにしました。そのせいで何が良くなったと思いますか?練習の時間が短くなったのです。
日本スポーツ界にあってコーチングの権威である大先輩から「コーチングで一番重要なのは、わかりやすいことだよ」と言われました。スポーツという「非日常」を日常にするためにもわかりやすいのが最低条件なのだ、と。練習の意図が明確であれば、選手にとってどんなハードトレーニングでも腹に落ちることがあれば大丈夫なのです。
そうなると、強度は高くても時間はどんどん短くなります。休みなしで2時間ぐらいです。当時のハンドボールの練習は普通、一本シュートを打つとことごとくインターバルが入っていました。トレーニングの組み立て方、設定がよくなかったのですね。強度が落ちたまま、3時間4時間も練習していました。今はフィジカルが入っても2時間半ぐらいですが、今後、より磨いていきたいと考えているのは、その中にフィジカルやフィットネスを高めるスキルのベースのトレーニングと、体力的なベースのトレーニングをミックスし、あらゆる局面でどんな相手に対しても正確なスキルが発揮できるようにさせてやることです。それによって自信をつけることができるのではないか、と考えています。
あの時の映像は、私が指導者として選手と仕事をする上で大きく変わるきっかけになりました。ミスが転機になったわけです。あの映像は今でも脳裏に焼き付いていますよ。今だからこうして受け入れられますが、当時は本当に大変でした。(後編につづく)
(文:河崎美代子)
後編はこちらから↓
リレーインタビュー 第14回 酒巻清治さん(後編)
【酒巻清治さん プロフィール】
昭和 37年 5月 7日生
昭和60年 3月 愛知県豊田市・中京大学体育学部体育学科卒業
同年 4月 湧永製薬株式会社 入社
同年 5月 全日本チーム入り
同年 10月 同期入社の玉村選手と当時の西ドイツブンデスリーガ2部
アイントラフト・ウ゛ィスバーデンへハンドボール留学
(期間:1985.10~1986.6)
平成 6年 2月 同社ハンドボール部監督に就任
平成 8年 3月 同社ハンドボール部監督を退任
平成 8年 3月 全日本男子チームのコーチ就任
日本オリンピック委員会球技系サポートプロジェクト
メンバー
平成12年 2月 全日本男子チームのコーチ退任
ナショナルトレーニングシステムスタッフ
(中国ブロックコーディネーター)
平成12年 4月 湧永製薬ハンドボール部監督に就任
平成16年 6月 湧永製薬退社
平成16年10月 スウェーデン・マルメ市に渡り独自でコーチング研修
スウェーデン・デンマーク国内リーグ観戦。
ブンデスリーガ・SGフレンスブルグのチーム活動に
参加。
平成17年 6月 トヨタ車体ハンドボール部 総監督に就任。
平成18年 4月 トヨタ車体ハンドボール部 監督に就任。
平成19年12月 男子日本代表チーム 監督に就任。
平成20年 4月 トヨタ車体ハンドボール部 テクニカルディレクター
就任。
平成24年 4月 男子日本代表チーム 監督退任。
平成25年 4月 トヨタ車体ハンドボール部 監督に再任。
平成29年 3月 トヨタ車体ハンドボール部 監督退任。
平成29年 4月 日本代表男子チーム チームマネージャー就任。
平成30年 3月 日本代表男子チーム チームマネージャー退任。
平成30年 4月 トヨタ車体ハンドボール部 テクニカルディレクター
就任。