スポーツ指導者が学びあえる場

リレーインタビュー 第20回 宮崎博史さん(前編)

「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々、指導者として現在ご活躍の方々のインタビューをリレー形式でご紹介しています。今回は、鹿児島県で陸上競技ナンバーワンクラブの宮崎博史さんにお話を伺いました。

宮崎さんは高校時代、野球に打ち込み、夏の甲子園に出場。社会に出てからも軟式野球を続けていましたが、23歳の時、地元である喜入町の大会に陸上選手として出場したことをきっかけに、県民大会の100m走に出場して見事優勝、翌年の日本選手権と国体でも優勝を果たします。以後、陸上選手としてめきめきと成績を上げ、日本代表として国内外で活躍するようになりました。

1993年からは企業の陸上部監督に就任し、2003年プロの指導者となってからは主に小中学生の指導を行っています。

大人になってから陸上競技を始め、一流選手になっていく過程で、宮崎さんがどのような指導者や指導法と出会い、その経験がどのように今に活かされているのか、前・中・後編の3回にわたってご紹介します。

(2020年2月 インタビュアー:松場俊夫)

▷ ナンバーワンクラブをどのような意図や思いで設立されたのでしょうか。

設立は平成15年(2003年)7月です。当時私は、企業スポーツに少々疲れていたこともあり、中京大学の陸上選手だった遠矢慎一(とうやしんいち)さんと何かできないだろうかと考えて始めたのがナンバーワンクラブです。

初めはスタッフ3人で口コミで依頼を受け、陸上に限らず、野球やラグビーなどのトレーニング方法、足を速くする方法などのベーシックサポートを行っていました。クラブとしては、当初小1から中高生、一般の方もいらしたのですが、基本的には小中学生を中心に、陸上を通じて礼儀作法、基礎体力を作るトレーニング、陸上競技の基本を並行して指導し、試合で結果を出そうということで活動を始めました。

▷ 「企業スポーツに疲れた」というのは?

日本石油で現役時代を過ごし、30歳で引退してから4、5年、総務課で仕事していたのですが、城山観光という会社が陸上部をつくることになり、監督になってくれないかと頼まれたのです。非常に悩みましたが、選手指導をしてみたいと思っていたので、家族を説得して監督になりました。

しかし会社の業績不振で、陸上部は7年しかもちませんでした。廃部にすると言われたのは3月だったので、何人かいる選手をどうするか、途方にくれました。翌月から新年度が始まるのに、彼らを受け入れてくれるところがない。色々なところを探しましたが見つからず、結局4月からみんなバラバラになってしまいました。教員になった者、針灸師になった者もいます。太田敬介という者は今でもがんばっていて、鹿児島市の総合型地域スポーツクラブSCCというNPO法人を設立し、現在、理事長をしています。

その後、徳洲会病院の陸上部で2年間活動し、リレーは全日本で勝ったこともありました。しかし、経営状態で左右される企業でやっていてはだめなのではないか、という気持が強くなってしまったのです。そんな時に、遠矢慎一さんが永年勤務していた会社がつぶれてしまったと言う話を聞き、二人で何かやりましょうと声をかけて始めたのが、このナンバーワンクラブです。

▷ クラブを設立されて苦労されたことはありますか?

月曜以外週6日活動しているのですが、出水と日置と2つの拠点があり、火曜・木曜・土曜が出水で、水曜・金曜・日曜が日置。練習の開始時間は平日が17時から、土曜は14時から、日曜は9時から。私は喜入というところに住んでいるので移動に2時間ぐらいかかり、最初は通っていたので大変でした。

▷ 高校時代は野球に打ち込んでいらしたわけですが、陸上選手になられたきっかけは何だったのでしょうか。

会社に入ってからは軟式野球をやっていたのですが、勤務していた喜入町の町民体育大会の100m走で勝ったことで、県民体育大会に誘われ、出場したら優勝してしまったのです。それがきっかけで24歳の時、本格的に陸上を始めました。その年は九州選手権、日本選手権と、とんとん拍子で優勝し、2週間後の群馬国体では10秒38で優勝しました。

喜入の大会で勝った時、どのレベルまでできるのか知りたいと思ったのです。ですから、軟式野球をやりながら、時間があれば週2日程度、鹿児島南高校というところで練習し、3交代勤務で夜中に仕事して、というハードな生活をしていました。

当時、会社に陸上部はなく、日本選手権に出場するにあたり、従業員がカンパしてくれました。その資金でユニホーム等を作り、その結果、優勝という形で恩返しができました。その後は日本石油の社長のお墨付きをもらい、その年の12月からやっと練習の時間を作ってもらえるようになりました。でも当時は10人の部員の名前がないと日本石油という名前で出場できなかったので、社員の名前を借りて登録していました。

▷ 陸上選手になられた頃はどのような指導を受けたのですか?

県の国体合宿に参加した時に、陸上の恩師、廣津匡一(ひろつまさかず)先生に出会いました。鹿児島南高校の教諭をされていたのですが、先生には陸上の1から10まですべてを教えてもらいました。

「廣津先生に指導してもらえば大丈夫」と言って紹介して下さったのが大迫夕起子さんです。大迫さんは短距離の高校チャンピオンで、大昭和製紙に所属して活躍後、鹿児島に帰って来られた方です。1983年の群馬国体に一緒に出場し、100mでアベック優勝しました。

私は現役を6年半しかやっていないのですが、始まりが24歳だったので、中身の濃い経験をさせてもらいました。とにかく走るたびに記録が伸びていくのが面白くて。実は、日本選手権、群馬国体で優勝した時にプロ野球からのスカウトもあったのですが、もう野球をする気はありませんでした。身体は小さいし、足だけ速いのでは仕方がないですし。昔、ロッテにいた飯島秀夫さんのような代走専門選手になる気はなかったです。

私は現役の頃から10年間ぐらい、日本石油野球部の監督に頼まれ、走法のコーチもしていました。会社の硬式野球部がランニング合宿をする度に、東京の等々力の競技場に行ったり、指宿のキャンプ場に行ったりしていました。

野球部の指導についても廣津先生から、陸上と野球をうまく噛み合わせた感じで考えなさいと言われて、それが現在の高校(創志学園)での指導にもつながっています。ベースランニングやリードの重心の持って行きかたなど、もし野球をしていた頃にこの知識があればもっと良くなっていたのにと思うこともあります。

▷ 廣津先生の指導で一番印象的だったことは何ですか?

先生からは、重心の移動、地面を捉えた時の足首のブロック、膝のブロックについて教わりました。足首がブロックできないと、空気のぬけたボールと同じで、力が全部地面に吸収されてしまうのです。空気のぬけたボールを落とすと接地面が広く、接地時間も長く、速い切り返しができません。でも空気の入ったボールは落とすと、ポーンと弾みます。そこに回転を与えると、前に弾き出されます。つまり、足は引き上げるのではなく、ふり下ろす速さが非常に重要なのです。落下速度をあげると力が大きくなるわけです。先生から「上げた足を速く返して地面を引っかきなさい」とよく言われたものです。

それから、手と足は連動するので、手をおろそかにしてはいけないとも言われました。高野進先生が表現したと言われる「ナンバ走り」、左足に対して左手、右足に対して右手という走り方がありますよね。そうした連動性についても学びました。私は野球をやっていて、めちゃくちゃな腕振りをしていたので、まずコーナリングの腕の振り方から指導を受けました。野球の場合は内傾が大事になってくるのですが、陸上は違います。

先生からは、3年経った時に陸上選手らしくなり、7年経った時に本物になればいいと言われましたが、始めたのが24歳ですからね。それでは30歳になってしまうではないかと焦りを感じました。ですから、廣津先生から言われたことは全て吸収していきました。

先生は、鹿児島南高校の陸上部の生徒が練習を終えて帰った後、ボランティアで1対1の指導をしてくれました。色々なトレーニングをやり、その後、教官室でコーヒーを飲みながら理論を教わりました。ですから帰る時間は8時や8時半です。大変ではありましたが、先生の言うことは全て正しいと信じて臨んでいました。

▷ その時の理論は今でも通用していますか?

当時は土の地面にラインを引いて、ピッチ走法やスライド走法、重心移動などをやっていました。今は土ではなくオールウェザーのタータンに変わりましたが、40年経っても、当時の練習をそのままやっています。あのやり方で選手が強くなっていっているので間違いないです。先生からは正しいことを正しく教わったと思っています。

 トレーニングに流行を取り入れることはあまりないですが、柔軟性は重要視しています。SAQトレーニングの3つの要素、スピード(速さ)・アジリティ(敏捷性)・クイックネス(すばやさ)を大事にして、ウォーミングアップの中でのストレッチは欠かしません。ダイナミックなフレキシブルトレーニングで股関節まわりや肩周りを柔らかくします。陸上選手だけでなく、野球選手にも同様の指導をしています。

筋肉自体に柔軟性がないと怪我につながります。たとえ骨格は硬くても、筋肉が柔らかければ良いのですが、筋肉が硬いと能力はなかなか伸びません。特に100m走は最大スピードで爆発させて走るので怪我と背中合わせです。筋肉が柔らかくないと対応できないのです。(中編へ続く)

(文:河崎美代子)

中編はこちらこら↓
リレーインタビュー 第20回 宮崎博史さん(中編)

後編はこちらから↓
リレーインタビュー 第20回 宮崎博史さん(後編)

◎宮崎博史さんプロフィール

昭和34年生まれ。

鹿児島商工高校(現・樟南高等学校)で夏の甲子園に出場、

卒業後、日本石油喜入基地に入社。

24歳の時陸上に転向。

83年・85年・86年の日本選手権及び83年・89年国体の100mに優勝。

日本代表としてソウルアジア大会6位入賞等々国内外で活躍。

93年からは城山観光陸上部監督

2001年からは徳洲会陸上部の監督として全日本クラスの選手を数多く育成。

その間、日本陸上連盟の短距離コーチ、鹿児島県県陸上協会強化部短距離担当として数多くの優秀選手を育成。徳洲会陸上部の廃部を機に、2003年、ナンバーワンクラブを設立。プロの指導者としてスタートする。

日本体育協会公認陸上競技指導員。

100mBEST・10秒48

陸上競技ナンバーワンクラブHP