「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々にご自身の経験やお考えなどを伺い、次の指導者の方にバトンをつないでいきます。
宇津木妙子さんからバトンを継いだのは、ご存じ「岡ちゃん」こと岡田武史さんです。
サッカーワールドカップでは初の本戦出場に日本代表を導き、今は現場を離れ、経営者として四国リーグ所属のFC今治を率いていらっしゃいます。
指導者として開眼したドイツでの経験、「岡田スタイル」の真実、そして、悩みぬいた末に見えてくるものとは?今こそ知りたい岡田武史さんのお話を前・中・後編の3回にわたってご紹介していきます。
(2015年7月 インタビュアー:松場俊夫)
古河電工にいた33歳の秋に、監督から現役を引退してコーチをやってくれと言われました。でも選手としてできる自信がまだありましたし、その時の大学の有望新人が「岡田がいると試合に出られないから古河には来ない」と言っていたそうで、それなら絶対に現役はやめないと言っていたのです。
そして年が明けた1月、日本リーグ選抜とFCバイエルンミュンヘンの試合(注:1990年1月20日に行われたゼロックス・スーパーサッカー)がありました。木村和司がアウゲンターラーの股をぬいて1点決めて、世界の強豪相手に1-2のいい試合をしたのです。僕はキャプテンで、記者会見ではいい試合だったとほめられましたけど、何を感じていたかと言うと、もはや「うまいへた」のレベルではない、次元が違う。うまい、速い、強い、など色々ありますが、トータルそろって格が違う、僕たちと同じものがどれ一つとしてない、という感覚です。僕は、努力したらもっとうまくなる、ヨーロッパのプロみたいになってやる、と思っていましたが、どんなに努力しても追い付かないと感じました。その瞬間に「引退」という言葉が浮かびましたね。ですから、現役をやめた瞬間から「彼らにどうすれば勝てるか」がテーマとしてずっとあるわけです。
もともと生意気な選手でしたし、様々な勉強もしていたつもりだったので、試合前のミーティングは僕がやることもあり、自分がチームを動かしていると思っていたのです。ですから、指導者になったら、選手の時に思っていたこと、選手がやりやすい、やる気になる、やりたいことをやってやろうと思っていました。
最初の2年間、僕はコーチでしたがほぼ練習を任されていました。常に選手目線でやっていたのですが、チームも選手も全然伸びない。行き詰って、これではダメになる、しばらく充電しなくては、と思いましたが、会社員ですからそれは無理なこと。妻と子供3人いましたから、会社を辞めるわけにいかないし、賭けで「一年間、海外に行かせてくれ」と頼んだら、行かせてくれることになり、ドイツに向かったわけです。
でも前任者もいない所に妻子を連れて行って、ドイツ語もろくにできないし、家もなかなか見つけられない。でも何とか子供を学校に入れて…と、ものすごく苦労しました。チームも奥寺さんが頼んでくれた所からは相手にされなかったので、自分で探すしかありませんでした。
ハンブルグに英語のできる監督がいるというので直接会いに行ったら、「外で見ていて」と。それでは地元のおじいちゃんたちと同じだろ!と思いましたが、ダメだと言われたらそれで終わってしまうでしょう。だから、チームがランニングする度に少しずつ距離を縮めていきました。選手に10メートルぐらいに近づいた時、監督と目が合ったら監督がニヤッと笑った。後ろについていくことを許してくれたのです。それからは練習所の横の川にボールが落ちると率先して取りに行きましたし、とにかく何でもやりました。
ある時、試合翌日の練習でメンバーが足りない。「おまえ入って」というので入ったら、「なんだ、おまえサッカーできるじゃないか!」と。そりゃそうですよ。一応、代表選手なんだから(笑)。彼はメガネかけた日本人にサッカーができるとは思っていなかったのですね。その時から認められて、練習をみたり、ミーティングに入れてくれたり、遠征に連れて行ってくれるようになりました。ガラリと変わりましたね。
一年間やり終えて、正直、特に目新しいものはありませんでした。逆に古さを感じましたよ。当時(1992年)は観客もどんどん減っていたし、監督が絶対で、文句を言おうものなら「全員ダッシュ!」(笑)。昔どこかで見た光景ですよ。
でも僕が学んだ大きなものは、選手の目線でやろうとした自分に対して、監督という立場の強さが必要であること、監督として孤独に耐える強さを持つことです。監督と選手では見る方向が違います。選手はI、監督はWE。ここが全然違うわけです。監督としてけじめを持たなければ行けない。それと、サッカーとは別に家族を食べさせることがどれだけ大変なことかも学びましたね。
それは代表チームのイメージが強いのではないでしょうか。選手とコミュニケーションは取っていますよ。ただ、自分の弱さはわかっているので、基本的に最後の一線は守って、情に流されないようにしてきました。今でも、お酒は一緒に飲みません。酔っぱらっているところを見せられないし、酔っぱらって何か言ってしまったりしてはだめでしょう。もちろん、仲良しグループに入りたいですよ。でもそれはできません。
クラブチームの場合は1年間、メンバーがずっと一緒ですからより関係が近くなります。でも代表の場合は、メンバーを毎回変えなければならないこともある。試合の三日前に集まるのが普通で、キャンプも一週間か十日程度。ですから仕方ないです。
スタイルについてですが、正直言うと、僕は同じことを繰り返せない。新しいチャレンジをしないと気が済まないのです。成功すれば来年もこれでいけるという計算は立ちますが、モチベーションががくんと落ちてしまいます。同じことをやればお金はもらえるわけで、それじゃプロじゃないよと言われますが、そのやり方だと自分は続けられないですね。
要は、スタイルを変えているというよりも、新しいチャレンジをしているということです。例えばシーズン最初のミーティングの時に今年の目標は何か、勝ち点は何点取るか、問題点は何か、具体的に話します。みんな、真剣にこちらを見ますよ。でも二年目の最初のミーティングに同じことを言っていたら、選手たちをこれだけ引き付けることはできません。ですからオフにはイタリアに行ったりして勉強するわけです。じっとしてはいられませんよ。同じことができないという性格に加えて、選手たちの目を輝かせるためにはどうすればいいかを考えると、こういうスタイルになるのだと思います。 (中編につづく)
(文:河崎美代子)
中編はこちらから↓
リレーインタビュー 第2回 岡田武史さん(中編)
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リレーインタビュー 第2回 岡田武史さん(後編)
大阪府立天王寺高等学校、早稲田大学でサッカー部に所属。
同大学卒業後、古河電気工業に入社しサッカー日本代表に選出。
引退後は、クラブサッカーチームコーチを務め、
1997年に日本代表監督となり史上初のW杯本選出場を実現。
その後、Jリーグでのチーム監督を経て、2007年から再び日本代表監督を務め、
10年のW杯南アフリカ大会でチームをベスト16に導く。
中国サッカー・スーパーリーグ、杭州緑城の監督を経て、
14年11月四国リーグFC今治のオーナーに就任。
日本サッカー界の「育成改革」、そして「地方創生」に情熱を注いでいる。
☆座右の銘
人間万事塞翁が馬