「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々にご自身の経験やお考えなどを伺い、次の指導者の方にバトンをつないでいきます。
記念すべき第1回は、第1回公開セミナー『門』でもご登壇いただいた宇津木妙子さんです。
女子ソフトボール日本代表を初めてのメダル獲得に導いた宇津木さんは、世界野球ソフトボール連盟の理事として世界的なソフトボールの普及に努めると同時に、東京国際大学女子ソフトボール部の総監督としてもご活躍中です。
監督時代、鬼監督と恐れられながらも選手たちに慕われた理由、指導者として最も大切にしていることは何か、前・中・後編の3回にわたってご紹介していきます。
(2015年5月 インタビュアー:松場俊夫)
日立高崎の監督には1986年に就任しました。引退して実家の埼玉県に帰り、母校や全日本ジュニアのコーチをしていた時、遠征先で、当時の工場長さんから「チームを見てくれないか」と声をかけられたんです。当時の日立高崎は3部リーグ所属の弱小チーム。ところが、グラウンドに足を運ぶと、みな練習熱心で、才能のある選手がそろっていました。「これだけのメンバーがいるならもっと強いチームにできるはず。いや、強いチームにしなくてはいけない」と率直に思いました。まずトレーニングコーチとして1か月ほどの指導期間を経て、正式に就任要請をいただきました。
父の言葉が指導者としての原点です。監督就任を父に相談した時、最初はとても強く反対されました。「選手は自分のことだけを考えていればいいが、監督は、選手の親や学校、企業のことも考えなければならないんだ。そして、何よりも結果が大事。時には社長になり、時には裏方にならないとダメなんだぞ」と諭されました。娘につらい思いをさせたくない一心だったのでしょう。
でも、私はどうしても監督をやってみたかった。そこで、「実は……」と、高校時代にいじめられて色々な苦労をしたこと、社会人になってからもトイレ掃除や郵便配達をやらされて大変だったことを初めて伝えたのです。私なりの覚悟を伝えたつもりでした。すると、父は驚き「苦労しているのは知っていたけどまさかそこまで」と涙を流しました。父が泣く姿を見た時、父はなんて弱いんだろうと思い、絶対に迷惑や心配をかけてはいけないと思ったものです。父のその涙が、指導者になってから役に立ちました。人間は自然体でなければいけないということを父から学びました。
父の言葉で強く心に響いたのは「企業スポーツは勝たなければいけないが、愛されないと成り立たない」という言葉です。ほかの従業員が工場で働いている間に、私たちはソフトボールをさせてもらっている。それを快く思っていない従業員もいるかもしれません。勝っているときは無条件にチヤホヤしてくれる人たちも、何かあればあっという間にそばから去っていくものです。ユニチカでも多くの経験をして、つらいこともたくさん味わいました。でも、働くこと、給料をいただくことはこういうことだと身をもって学ばせてもらった。だからこそ、父の言葉がよく理解できました。
そこで、私は「挨拶、時間厳守、整理整頓、相手に対する気配りは当然のこととして、チーム理念と細かいルールを作り、裏方のことは何でもする、役割分担を明確にする、自分ができない選手だったから、選手のいいところを引き出すようなチームを作りたい」と思いを伝えました。そこでようやく、父は「それなら3年がんばれ。3年で結果が出なければやめろ」と言ってくれました。
会社側には「選手がソフトボールを辞めてからも従業員として働けるように指導してほしい。そのかわり練習と寮生活は責任持ちますから」とはっきり伝え、「決断、覚悟、責任」、この3つの言葉を頭に入れて監督生活をスタートさせました。
結婚です。自覚はありませんでしたが、選手たちから「優しくなった」と言われたり、逆に「自分たちのことはもう思ってくれないのではないか」と心配されたりしました。確かにそれまでは、四六時中、食事からお風呂までずっと選手と一緒に過ごしていたのですが、結婚後は、練習が終わるとすぐに帰宅するようになりました。「(夫に私を)取られたような気がした」とも言われました。
私自身の考え方も大きく変わりました。夫という第三者がそばにいると、相手がどう考えるだろうかと思いを巡らせるようになり、今までと違うものの見方ができるようになります。選手とのやりとりは「はい、はい」と一方通行になりがちですから、夫に「そうじゃないよ」と言われてハッとさせられることも多かったです。シドニー五輪の時でしたから、夫とそんなに一緒にいたわけではないのですが、冷静に物事を考える機会が多くなり、選手の考えや行動の理由が今まで以上に分かるようになってきました。
とはいえ、選手との関係性が大きく変わったわけではありません。今も昔も、選手たちは私に本音で言いたいことをぶつけてきます。世間では強烈な「鬼監督」のようにも言われていますが、実際はそうでもないのです。選手からは「緊張するけれど話しやすい」とよく言われますよ。選手に交換日記のようなノートを書かせていたのですが、先輩の悪口も含めて、本当にさまざまなことを率直に、正直に書いてきてくれましたよ。
選手はみなかわいいです。中には「優秀な子は好きだが、ちょっと変わっている子は苦手」という指導者もいますが、私にそういうことはありません。自分自身がちょっと変わっている方でしたから。相手チームの子にもアドバイスしますよ。次の日、いいピッチングすると嬉しいですね。「敵なのに」というような意識は全くありません。人に興味がある、人が好きなのでしょうね。(中編につづく)
(文:河崎 美代子)
中編はこちらから↓
リレーインタビュー 第1回 宇津木妙子さん(中編)
後編はこちらから↓
リレーインタビュー 第1回 宇津木妙子さん(後編)
1953年4月6日生まれ。埼玉県出身。
川島町立川島中学校よりソフトボールをはじめ、1972年にユニチカ垂井(実業団)入社し、ソフトボール部に入部。1974年には、最年少で全日本選手として世界選手権に出場し、準優勝に貢献した。
1985年に現役引退後は、日本リーグの日立高崎(現ルネサスエレクトロニクス高崎)の監督に就任。日本リーグの中では、初の女性監督だった。当時3部のチームを3年後には1部に昇格させ、その後は日本リーグ優勝3回等の成績を飾る。
これらの活躍が評価され、1997年日本代表監督に就任し、2000年シドニーオリンピックでは銀メダル、2004年アテネオリンピックでは銅メダルを獲得した。2005年には、日本人女性として初の国際ソフトボール連盟殿堂入り。
2009年8月に本学人間社会学部特命教授。
2010年4月、東京国際大学女子ソフトボール部総監督に就任。
2014年世界野球ソフトボール連盟理事に就任。
現在は、ビックカメラ女子ソフトボール高崎チームのシニアアドバイザーの傍ら、公益財団法人日本ソフトボール協会副会長(国際委員長)、文部科学省中央教育審議会委員等を歴任し、国内での課外授業の講師や講演活動等を精力的に行っており、熱血先生・指導者として活躍している。加えて、ソフトボールの普及を図ることを目的に、2011年6月に「NPO法人ソフトボール・ドリーム」を設立し、理事長となり、国内はもとより、ヨーロッパ・アフリカ等に出向き、世界を駆け巡って活動中である。
座右の銘は、
「努力は裏切らない」 「人生に夢があるのではない、人生が夢をつくるのである」