「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々にご自身の経験やお考えなどを伺い、次の指導者の方にバトンをつないでいきます。
平尾誠二さんからバトンを継いだのは、北京五輪男子400メートルリレー銅メダルの朝原宣治さんです。日本人離れした強靭な肉体で、日本陸上短距離界の第一人者として活躍されましたが、引退後は、後輩選手の育成の他、陸上競技クラブ「NOBY T&F CLUB」を設立し、次世代育成に情熱を注いでいらっしゃいます。
チームスポーツと全く異なる、個人競技の指導とは?指導者と選手の関わり合いは? 前・中・後編の3回にわたってご紹介していきます。
(2015年9月 インタビュアー:松場俊夫)
前編はこちらから↓
リレーインタビュー 第4回 朝原宣治さん(前編)
私はドイツとアメリカに留学しました。
ドイツに行く時、ドイツですから冷静で綿密な計画通りにやるのかと思ったのですが、全くそうではありませんでした。コーチによるとは思いますが。初め、一年間のプログラムを立てて細分化していき、一週間単位に分けたものに従って練習するのですが、その内容がコーチの興奮度によって変わるのですよ。彼は大体いつも興奮していますから、「もっといける」「もっといける」と、どんどん増えて行くので、結局練習内容は計画よりも大幅に増えました。感情によって左右されるのですね。でも、とても熱心にアジアから来た選手を教えてくれました。
一方、アメリカはもっと適当かと思ったら、全く違いました。ダン・パフというアメリカで3本の指にはいる有名なコーチなのですが、非常に細かい方で、「練習量がオーバーすると、年間のプログラムに影響を与えるからここでやめて」と予定通りで練習を止めます。解剖学なども学んでいるので身体のこともよく知っていて、身体のここが痛いというと、何かをメモして「トレーナーにこれを見せて治療してもらえ」と渡してくれるのです。
どちらのコーチも私にとっては刺激になりました。ただ、ドイツに行ったのは20代前半、アメリカには30歳になる直前に行ったのですが、もしもこれが逆だったらつぶれていたと思います。いつ、どの指導者に出会うかで選手は大きく変わります。さらに私の場合は特定のコーチを持たずに、自分に軸足をおき、いろいろな指導者の言うことを聞いてやってきたので、このコーチがいいか悪いかを自分で判断していました。
今は自分が指導者になっているわけですが、私自身、トップ選手としてやってきた経験がありますから、選手が私の言うことに対して疑いをかけるということはないと思うのです。ただ、水泳の平井伯昌先生がおっしゃられた「自分の経験をそのまま指導することは間違いだ」と言うのはよくわかります。感覚も走り方も違いますから。陸上競技というのはどのような練習で何秒出るかが明らかな競技で、何が得意で何が不得意かもすぐにわかります。私ができないことを軽くやってしまう選手がいたり。その逆があったり。自分の経験をそのまま落とし込んで指導するのは意味がないということは意識しています。
初めはトラッククラブを作り、子どもたちを指導する方から入っていきました。私が引退する時、400mの山口有希選手が現役でいて、世界陸上に出たりしていたのですが、誰がその選手を世話する?ということで自分が担当することになりました。400mはよくわかりませんし、ネガティブになりがちな選手でしたので試行錯誤の連続でしたよ。自分の経験をそのまま伝えるというのは難しく、様子を見ながら、どんな練習をすればいいか考えながら、徐々にアドバイスをしていきました。
彼をみた後に、100mの江里口選手が来てくれたので、そこから本格的に専門の指導が始まりました。ただ、彼は私をまだ選手としてみていて、私も彼を一目置くトップの選手とみていましたから、引退して選手をみるというのは不思議な感じがあり、アドバイスをするのは偉そうな感じがしてしまうのです。
トップになればなるほど、選手として大事にしていることや、邪魔されたくない部分があります。江里口選手は日本選手権で何度も勝っている選手でしたから、彼のプライドを考えて、どこからどのように入ったらいいかを探っていました。私からすれば、トップアスリートの一人ですから遠慮もありました。今は怪我のリハビリ中なのですが、そういう状況の方が、本音や弱みが出て来やすいので、関係は深くなると思います。
コーチは、選手が怪我で落ち込んでいる時、どこから考えても厳しい状況にある時にも、「ちょっときついなあ」と言うようなことは言えません。選手はもちろんのこと、コーチもあきらめずにネガティブな気持ちを断ち切りながら、最後まで全うしたいと思います。
ジャマイカの選手のように、100mは持って生まれた素質が大きいですが、日本人は劣っているからと言ってしまったら、そこで終わりです。ある程度、才能というのはあると思いますが、何もしなくても速い選手に比べたら、日本人はまだやりがいがあります。私たちは練習量とか質、技術をつきつめてやっています。そこは諦めるわけにはいきません。どのようにして今の力を最大限にひきだすか、そこが大きいです。例えば、同じ才能をもっていたとしても、何かのきっかけで、非科学的な言い方で言えば気持ちの持ち方で、伸びしろが全然ちがってきます。良いコーチが関わり、伸びるスイッチを押してあげると、飛躍的に選手が伸びる場合もあるのです。
何とか行けるのではないかというの気持ちを持っていないとやっていられません。
でも、桐生祥秀選手が登場して、9秒8台を出しました。日本もここまできたんだ、と思います。日本人の選手は代々、それぞれに突き詰めてやってきています。伊東浩司さんは非常に独自の練習をしていましたし、末續慎吾選手も「ナンバ走り」(注:ナンバとは右手と右脚、左手と左脚を同時に出す走り方。江戸時代の日本の飛脚の走り方と言われている)をやったりしています。日本人は突き詰めて技術や論理を熟練させることが得意ですね。そうした拠り所がないと同じように戦えないというのがありますし、一度信じたことがもし成果を上げれば、歴代の選手のように勝負ができるという状況になります。若い選手もある程度覚悟を決めて、普段の生活や食事を変えるところから始めるなど、それぞれの方法を模索しています。
やはり本人のやる気と言うか、覚悟と言うか、本気でどこまでやって何を信じるかという世界になると思います。もちろん、肉体的な才能というのはあると思いますが、その引き出し方は本人しかわからないのです。 (後編につづく)
(文:河崎美代子)
後編はこちらから↓
リレーインタビュー 第4回 朝原宣治さん(後編)
1972年、兵庫県出身。高校時代から本格的に陸上競技に取り組み、走り幅跳び選手としてインターハイで優勝。同志社大学時代は国体100mで10.19秒の日本記録を樹立し、その加速力より「和製カール・ルイス」と呼ばれた。大阪ガス株式会社に入社、ドイツへ陸上留学。五輪初出場となった1996年のアトランタオリンピック100mでは日本にとって28年ぶりとなる準決勝進出を果たし、自身4度目となる2008年の北京オリンピック4×100mリレーでは、悲願の銅メダルを獲得した。同年9月、36歳で引退を表明。現役生活中に世界陸上には6回出場し、日本陸上短距離界の第一人者として活躍してきた。2010年に陸上競技クラブ「NOBY T&F CLUB」を設立し、現在も次世代育成に情熱を注いでいる。妻は元シンクロナイズドスイミング選手の奥野史子氏。