リレーインタビュー 第9回 東野智弥さん(前編)

07.01

「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々、指導者として現在ご活躍の方々のインタビューをリレー形式でご紹介しています。

2016年リオデジャネイロパラリンピック車椅子バスケットボール男子日本代表のヘッドコーチを務めた及川晋平さんからバトンを引き継いだのは、日本バスケットボール協会技術委員会で委員長を務める東野智弥さんです。

 

東野さんは北陸高校、早稲田大学を経て、1993年アンフィニ東京(現在埼玉ブロンコス)へ。全日本実業団選手権準優勝に貢献しましたが、3シーズンプレーして渡米。半年の語学留学の後、オレゴン州ルイス&クラーク大学でアシスタントコーチに就任。2シーズン目には、カンファレンスチャンピオン・全米NAIAトーナメントベスト8にチームを導きました。帰国後は、実業団やプロチーム、大学、そして日本代表など数々のチームでコーチを務め、2016年、日本バスケットボール協会技術委員会委員長に就任しました。

 

ニックネームは「クラッシャー」。常に前進を続ける東野さんが「STEP BY STEP」の言葉を胸に突き進んだアメリカでの日々、コーチングから学んだこと、そしてこれからの指導者に伝えたいこととは?日本バスケットボールの将来を担う東野さんのお話を、前・中・後編の3回にわたってご紹介していきます。

(2017年4月 インタビュアー:松場俊夫、河崎美代子)

 

 

◎ 技術委員会委員長のお仕事について教えていただけますでしょうか?

 

ご存知だと思いますが、2014年、日本バスケットボール協会はFIBA(国際バスケットボール連盟)から資格停止処分を受けました。2リーグの並存がなぜ解消できないのか、ガバナンスが確立していないのか、代表チームをもっと強化すべきなのではないか、といった指摘を受けました。そこで一度リセットの状態となり、川淵三郎さんが会長となって改革に着手し、三屋裕子さんが会長に就任、川淵さんも現在エグゼクティブアドバイザーを務められています。

とにかく早急にバスケットボールを強化しなければいけない、誰かいないかということで、新たにできた技術委員会で、私が委員長を務めることになったわけです。技術全般、ユースや指導者に関する事柄のリーダーシップを取るのが私の仕事です。

日本のバスケットボールを強くする、メジャーにする、そのために自分ができることをとにかくやっているところです。私は20年コーチをやってきましたが、人をどう導いてマネジメントするかを始めとして、すべてをコーチングの中で学びました。初めはコートの中、続いてコートサイド、今はコートの外でバスケットボールのコーチングをしているような感覚です。

バスケットボールの競技人口は、全世界では4億5000万人。サッカーの2億6000万人をはるかに超えてトップです。日本国内でも、バスケットボール競技人口はサッカーに次ぐ多さです。漫画「スラムダンク」は1億冊も売れましたし、オリンピックも500万人が観たと言われています。にも関わらず、マイナースポーツの域を出ません。有名人がいないのも一因だと思いますが、人々を元気にし、感動を与える面白い競技であることをどう表現するかが課題です。

また、男子はオリンピックでも苦しい立場にいます。1976年のモントリオールからリオまで40年出場できませんでした。しかしそれが原動力にもなるのです。なぜこのポジションになったのか、強化育成をどうしたらいいのかを学ぶために、私は大学院でアルゼンチンのケースを研究しました。アルゼンチンもかつて日本と同じように44年間もオリンピックに出場できませんでしたが、1996年アトランタで久しぶりの出場を果たすと、2004年アテネで金メダルを獲得。今ではすっかり強豪国です。その研究結果をまとめた論文が評価されたことも、今につながっていると思っています。

 

写真提供:日本バスケットボール協会

 

◎ コーチをしていた時と今では、発揮されるリーダーシップは違いますか?

 

やることはほとんど変わらないです。アプローチは違いますが、選手にもコーチにも審判にも私が伝えたいことは一つだけ、「日常を世界基準に変えよう」ということです。そのために、自分の経験や学んできたことを自分なりのやりかたで伝えています。

私は場をなごませるのが得意ですが、ユーモアを持ちつつ相手に聞いてもらうことが大事だと思っています。最初からご大層なことを言うよりも、ジョークから始めるとみんなが聞く気になってくれます。それは、両親や育った環境の影響なのかもしれませんが、表面的なジョークではなく、耳を傾けてもらうためのもの、いわばプレゼンテーションです。

人生においては、さまざまなことを乗り越えれば乗り越えるほど、さらに高く厚く硬い壁がやって来ます。壁にぶつかっている若者たちを助けるのも自分の仕事です。ですから私は彼らの兄弟であり、先生であり、両親であり、時には、おじいさんやおばあさんの役割もしなければなりません。そこがコーチングの深さ、面白さ、やり甲斐だと思います。なかなか難しいことではありますが、常にベストを尽くすようにしています。

また私の仕事は環境作りの他に、いわゆる「政治的」な動きや組織への働きかけも必要になり、様々なことが関わってくるので、知らないことは知らないとはっきり言うようにしています。また、自分の意見は明確に発言し、区別や切り分けをしっかりすることを心がけています。そうでないと色々な問題が出てきてしまいます。将来どうなるかわからないことや過去のことをあれこれ討論しても仕方ありません。今何をすべきかをはっきりさせることが大事です。今やっていることはいずれ必ず影響してきますから、ちゃんとやっていない者を「現行犯逮捕」するのも私の仕事です。

 

 

◎ 東野さんは20年コーチをなさって来ましたが、コーチを志したきっかけは何だったのでしょうか?

 

9歳でミニバスケットを始めてからバスケットボール一筋、ずっと選手として活躍させてもらいましたが、次第に「日本のコーチングはどうなのだろうか」と疑問に思うようになりました。その疑問がはっきりしたのが高校の時のライバル、西俊明君が高校を卒業後アメリカにコーチ留学した時です。「マイケル・ジョーダンの母校でコーチになるんだ」なんて、当時そんなことを言う人いないですよ。驚きました。ですが1年後、アメリカで病気が見つかり、西君は日本に帰ってきました。

私は早稲田大学のバスケットボール部にいたのですが、ちょっと変わった選手で、監督がなかなか試合に出してくれないことに不満を持っていました。そんな私に西君が言ったんです。

「試合に出るだけがすべてじゃない。出る者、出ない者がいるのは、何をやったかによってゲームが決まるからだ」と。まさにコーチングでした。当時の私は反抗的で投げやりになっていたのですが、そういう考え方に触れて、自分自身のやるべきことが見えなくなっていたことに気づきました。西君は、一生懸命やることがすべてであり、同時に楽しむことが大事なのだということを教えてくれました。

おかげで私は試合に出られるようになったのですが、西君は2年の闘病ののち、21歳で亡くなりました。西君の葬儀の後、彼の遺志を継ぐためにもアメリカに行くことを考え始めました。その前に日本のトップを知っておきたいと思い、アンフィニ東京で3シーズンプレーし、その後アメリカに留学したというわけです。

 

 

◎ 渡米してわずか6ヶ月でコーチになられたそうですね?

 

3シーズンプレーした頃、今がアメリカに行く時だと思いました。私は後ずさりしない人間なので、気づいたらすぐに行動します。もちろんあちらに友達は一人もいませんでしたが、バスケットボールが友達を作ってくれました。渡米して2週間ぐらい経った頃、日本語を勉強していたある学生が声をかけてきて、彼の大学のバスケットボールコートに連れて行ってくれたのです。3つのレベルのコートがあり、私は中程度のコートでプレーさせてもらいましたが、3年間実業団チームでやっていましたから活躍するわけです。そのうち、最もレベルの高いコートから呼ばれてそこでも大活躍。「なぜジャパニーズがそんなにうまいんだ!」 などと言われながら、友達を増やしていきました。

6ヶ月が経ち、友達の紹介で行ったカリフォルニアの大学で、とても良いバスケットボールをやってる親日家のコーチがいると聞き、オレゴンに向かいました。そこでインタビューを受け、とりあえず10日間、ルイスアンドクラーク大学のアシスタントコーチをやることになったのです。できることはなんでもやりました。床を拭く、時計や椅子やホワイトボードを用意するといったマネージャーのようなこともです。毎日続けていたら、正式に入れてくれることになりました。

初めは、「サラダ(Salad)」の発音もできないぐらい英語がダメでしたので、机にStep by stepと書いて一生懸命勉強しました。日本人とは話さない、話すときは英語で話そうと決めて頑張りました。そんな私でも、6ヶ月でベンチに座ることができたのです。私の「クラッシャー」というニックネームも、激しいぶつかり合いも辞さないところから来ているのですが、そんなスピリットがもともとあったのだとは思いますが、扉をノックすることを恐れてはいけません。アメリカでは、出会いが私を前進させてくれること、学んだことをすぐに活かせることを経験できました。

 

 

◎ アメリカで経験したことを日本に伝えるために何から始めましたか?

 

1996年の夏、コーチの合間をみつけて子どもたちのキャンプに参加する機会がありました。その時に体験したコーチングに驚きました。みんな一生懸命なのに楽しんでいて、上からの押し付けはなし。選手に「気づき」を与えながらコーチングしているのを見て、これを日本でできたらすごいことになるなと思いました。でもまだ自分でコーチングすることは難しいので、いいコーチをアメリカから日本に連れて行って、「クラッシャーバスケットボールキャンプ」を開こうということになったのです。

夏だけ日本に帰って、パンフレットを作り、スポンサーを探しました。おかげで、翌年から広島や山梨などで始められることになり、 3年間、アメリカでコーチをしながら、夏になると日本を往復できる状況を作りました。コーチや選手を連れてくるマネジメントはアシスタントコーチの仕事でした。そこでも良い出会いがありましたよ。日本に毎年連れて行っていた選手は今ではNBAのインターナショナルリーグの副社長です。(中編につづく)

(文:河崎美代子)

 

 

【東野智弥さん プロフィール】

 

生年月日/1970 年9月9日(45 歳)

出 身 地/石川県

出 身 校/早稲田大学大学院 スポーツ科学研究科

(トップスポーツマネジメント コース/コーチング コース)

コーチ資格/JBA 公認A級コーチ JOC ナショナル・コーチ・アカデミー修了

 

【競技歴】 期間 所属 主な戦績等

1986- 北陸高校(1988年インターハイ優勝、1987年・1988年高校選抜優勝大会 3大会連続 2位

1989- 早稲田大学(関東学生リーグ1部/2部 全日本大学選手権大会出場)

1993-1995 アンフィニ東京 (現:埼玉ブロンコス) 全日本実業団選手権大会2位

 

【指導歴】 期間 所属 役職 主な戦績等

1996-1998 ルイス&クラーク大学アシスタントコーチ(NAIAトーナメントベスト8)

1998-1999 三井生命ファルコンズ アシスタントコーチ

1999-2001 エネミクロス・メディカルセンター スポーツコーディネーター

1999-2001 所沢ブロンコス(日本リーグ2部) ヘッドコーチ

1999-2001 早稲田大学 男子部 コーチ

1999-2008 車椅子バスケットボール男子日本代表アシスタントコーチ アドバイザーコーチ

2001-2004 トヨタ自動車アルバルク(スーパーリーグ)アシスタントコーチ(2001-02シーズン優勝)

2004-2006 男子日本代表 アシスタントコーチ(2006年@埼玉 FIBA 世界選手権20位)

2004    第4回 FIBAアジアヤングメン選手権 男子U-20日本代表アシスタントコーチ(13 位)

2007-2010 レラカムイ北海道(JBL) ヘッドコーチ

2010-2012 男子日本代表 コーチ

2012    ミルウォーキー・バックス (NBA サマーリーグ)アシスタントコーチ

2013-2016 車椅子バスケットボール男子日本代表 戦略コーチ

2013-2016 浜松・東三河フェニックス(bjリーグ) ヘッドコーチ(2014-15 シーズン優勝)

 

⭐︎ 日本バスケットボール協会 公式サイト

http://www.japanbasketball.jp//

 

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