リレーインタビュー 第5回 柳本晶一さん(後編)

03.01

■女子チームのマネジメント先駆者として、ノウハウをご教示頂けますでしょうか?

(中編より続く)

 

私が監督を務めた全日本女子チームは、7ヶ月という史上最短の速さで力を上げていきました。その理由は、スタッフを中心に置いたからです。それまで全日本チームは、1964年の東京五輪ではニチボー貝塚でしたが、その流れで40年間、その時に国内最強の実業団チームから選手を選んでいました。そのタブーをあえて冒して、日本のベストメンバーを選ぶのではなく、勝つための完全選抜制にしました。バレーボールは団体競技の代表のように言われますが、勝つという結果を求めれば、個人競技の側面が強いのです。選手それぞれに役割を与えて、その目的に添って一切の妥協をしないでそれをやり遂げた時に6つが1つになり勝つという結果が出ます。そこで初めてチームワークというものが出てきて、誰かのカバーをするとミスをするということが起きます。この勝負の怖さを骨身に染みている選手が必要でした。そこで選んだのが、吉原、竹下、そして高橋(みゆきさん)の3人でした。

ミスでも、目に見えるミスと見えないミスがあります。スパイクやサーブのアウトなど点に関わるのが目に見えるミスですが、力のある選手の場合、ミスが数字に出ない、目に見えないのです。つまり、能力が上がれば上がるほど、難しいボールでも対応できてしまうので、ミスに見えないわけです。試合ではそれでもいいのですが、強いチームを作ろうと思ったら、これは良くありません。竹下は、エースセッターを務めたチームがシドニー五輪の最終予選で敗退して辛い思いをしたので、身を持ってその怖さを知っていました。吉原も所属する全チームの「優勝請負人」で、明らかにトップ選手なのに、年齢を理由に全日本を7年も干されていましたし、高橋は練習を手抜きすることもあり、実力はあるのに評価が低い選手でした。こうした選手たちを選んだのは、目に見えないミスを補うのは経験しかないと思ったからです。

私もこれまでの人生経験で確信を持っていました。全日本ではずっと猫田(勝敏さん)の補欠でしたから。そうした経験は必ずプラスになります。ですから竹下も、パスが50センチずれるというミスが続いて、それが当たり前の空気になると怒ります。負けた経験があるからです。目標設定を100から10、20と短くしていく、そういう練習をしないと勝てないのです。おかげで、個人能力が上がるのが早かったですし、コンビネーションの精度も上がりました。

しかし、それだけモチベーションの高い練習をやってもノーミスは無理です。そこで大事なのがプラスワンでした。今日は精一杯やったと思っても、もう一つ何かやるべきことがある。それを苦もなくできるのが一流です。例えば、今日の練習はスパイクとレシーブは良かったがサーブが悪かったから、100本サーブの練習をして帰ろう、と私が言う。すると、極端に言えば、1から99までパーフェクトでも最後の100本目を失敗すれば99本を捨てて、もう10本やろう、となります。でも1でミスをして2から100までパーフェクトに打てたら、どんな経験をした選手でも帰ろうとします。でもミスはミスです。そこを判断するのも監督の仕事です。

 

柳本(ガッツポーズ)

 

■「自主性重視」にはどのような意図、あるいは狙いがあったのでしょうか?

 

自主性は、女子チームに最も欠けているものでした。そこで入れたのが高橋でした。なぜだと思いますか?
彼女は170センチで2メートルの選手を相手にできる能力の高い選手で、日本一うまい、器用な選手でした。しかし独自の行動をとることがあり、協会の評価が下がってしまいました。しかし、手を抜くことを知っていて、あれだけのパフォーマンスができるのは、大変な集中力を持っている証拠です。それに、彼女の明るいキャラクターも必要でした。

女子バレーにとって歴史と伝統は大切なので、昔ながらの「とにかくみんないつも一緒」がずっと続いていました。みんな一緒に同じジャージを着て移動するのが普通でした。しかし私は、ちゃんと着替えてメリハリをつけなさいと言いました。今はメールもSNSもある時代です。監督も知らない情報が常に流れているので、自主性を持って判断できるようになってもらわなければいけません。

一度、伊丹空港で搭乗券を全員に持たせて、搭乗口まで自分で行きなさいと言ったことがあります。すると、みんなザワザワしながら私について来るのです。「搭乗券にゲートも時間も書いてあるだろう。1時間あるから好きなことしていいよ」と言ったら、「監督は何か企んでいるのでは?」と騒然となりました。その時「ラッキー!」と言ったのは高橋だけでした。

このように、オンとオフの切り替えを自分でできることも必要な要素でした。2007年のワールドカップでポーランド戦をフルセットの激戦で勝った時、泣いて話せなくなったフジテレビのアナウンサーからマイクを取って「ありがとう!」と言ったのも高橋でした。かつての女子バレーだったらこんなことありえません。

そんな三人が三位一体で機能したのです。吉原はリーダーシップ、竹下は職人技、高橋はキャラクター、それぞれ特徴が異なりますが、三人とも挫折を経験しています。だから良い三角形を作ることができ、それがチームのベースになりました。

チームというのは今までの流れで踏襲されたものがありますが、あくまでもプレーヤーファーストです。教えてもらうのではなく盗みにいく、勝ちたいと思う気持ちを持つ者がいいのです。ですから私は時々、色々な話を選手にしましたよ。例えば、君が代や日の丸は故郷なのだと言うこと。ですから国旗を胸に戦うのだと。世界では今、様々なことが起きていますが、そんな時に支えになるのです。それに、ご飯も水も一人では食べたり飲んだりできません。ですから、この食事に関わるすべての人に感謝する気持ちを持つこと。それを持てるかどうかで人間は変わってきます。辛いのは当たり前だが、その先をどうするか。今ここにいさせてもらっている、という気持ちがあれば、考え方の深さも違ってきます。これもプラスワンです。

 

 

■選手たちにそうしたお話ができるのは、柳本さんのご経験の賜物ですね。

 

私はよく「人生 負け勝ち」と言いますが、勝ち続けることはないけれど、負け続けることもない、負けた時こそ自分を変えられる時なのです。例えば、勝ち負けの世界で目標をしっかり持てば、負けた後に変わることができます。恥ずかしいことなどありません。悔しさがあったかどうかです。そこで現れた「考える自分」が、次の自分のエッセンスになるのです。

しかし、勝った場合は達成感があるので甘くなってしまい、負ける目が見えません。ずっと勝ち続けることが難しいのはそこなのです。それは自分との戦いでもあるわけで、何を狙うかが大事です。メダルを狙うといっても、目標設定を間違えて3番(銅メダル)を狙えば3番の努力しかしない。1番、2番になれなかったことに気づかずに終わってしまいます。ですから、どんなレベルであっても1番を狙うこと。それでも3番になれば悔しさを知ります。それがチャレンジにつながるのです。進むスピードは違っても前に進むことができます。

大阪市立桜宮高校では2つのことを1、2年生の前で話しました。(※体罰問題を受け、柳本氏は2013年スポーツ指導刷新のために桜宮高等学校改革担当に就任した)

創立100周年を前に、これまでなかったことが起きて、皆、まわりの冷たい目にさらされている。そこで逃げるのか踏ん張るのか。これは授業のカリキュラムも大事だが、この経験を次に活かすことがもっと大事なことだ。そのために今は苦境の中にいるが、逃げずに桜ノ宮高校生として、まず誇りをもつこと。もう一つは、バレーボールでも英語でも何でも良い、金メダルを狙えということです。そしてその経験を次に活かしていけばよい、と。今いるここは長い人生の中のプロセスなのだから、3年もある、ではなくて3年しかないと思うこと。そうすれば、終わった時にこの経験を活かして人生で「幸せ」という金メダリストになれるよと言いました。

何事もまず目標を持つことです。自分では指導者になりたいと思ったことがないのにこうしてやってこられた、目標を持つことで生かされてきたという経験があります。私の場合、岡目八目と言いますか、少々力を抜くことができたので、人と違うことが少しはできたのではないかと思います。

 

 

■指導者の皆さんに一言いただけますでしょうか?

 

新しいことをする、何かにチャレンジしようとしたら必ず壁ができます。人間関係や様々なことが出てきます。でも諦めないことです。そうすれば壁がドアに変わる瞬間が来ます。壁は大きく見えますが、ドアに変わる瞬間に吹っ切れます。何度もそのことを繰り返していくと、30年前にあれだけ大きかった壁が、今見れば本当に小さいことがわかります。それが人生なのではないでしょうか。道ですね。志や、この世界に自分しかいないという思い。うぬぼれるのではなく、まず自分にできることから始めて、諦めないことが大事です。 (完)

(文:河崎美代子)

 

 

*柳本晶一さん プロフィール

生年月日 : 1951年6月5日

出身 : 大阪府大阪市

元バレーボール選手(元全日本代表)

2004年アテネオリンピック・2008年北京オリンピック

バレーボール全日本女子代表監督

身長 : 182㎝

 

略歴

1970年 : 大阪商業大学附属高等学校卒業後、帝人三原入社、

第2回実業団リーグ出場

1976年 : モントリオールオリンピック4位(全日本男子)

現役時代はセッターとして活躍する。

1980年から監督兼任。1991年選手を引退し、監督専任となった。1997年、Vリーグ女子・東洋紡オーキス監督に就任し、就任2年目でVリーグ初優勝、日本リーグ時代を通じて初めて、自分の指揮する男女チームを優勝させた。

2003年2月 : 全日本女子チーム監督に就任し、低迷していたチーム復活の立役者としてアテネ・北京、2大会連続でオリンピックへと導く。著書に『人生、負け勝ち』(2005年幻冬舎刊)

2010年 : 関西を拠点に五輪出場経験者らで「アスリートネットワーク」を立ち上げ、次世代にスポーツの魅力を伝えていく活動を始める。

 

監督就任時代の全日本女子チームの成績

2003年 : 2003ワールドカップ5位

2004年 : アテネオリンピック5位

2005年 : 第13回アジア女子選手権大会3位

2006年 : 第15回世界選手権6位

2006年 : 第15回アジア競技大会2位

2007年 : 第11回ワールドカップ7位

2007年 : 第14回バレーボールアジア女子選手権大会優勝

2008年 : 北京オリンピック世界最終予選兼アジア大陸予選3位(出場権獲得)

2008年 : 北京オリンピック5位

 

☆一般社団法人アスリートネットワーク

http://www.athlete-network.jp/

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