リレーインタビュー 第5回 柳本晶一さん(前編)

02.01

「コーチ道リレーインタビュー」では、指導者の先達である方々のインタビューをリレー形式でご紹介しています。今回、朝原宣治さんからバトンを引き継いだのは、数々のチームで監督を務め、全日本女子バレー監督時代は「復活請負人」と呼ばれた柳本晶一さんです。

 

新日本製鐵(現・堺ブレイザーズ)でセッターとして活躍後、監督兼任となり、就任2年目で日本リーグ優勝。タイ男子代表監督を経て、地域リーグの日新製鋼を日本リーグに昇格させ、東洋紡オーキスをVリーグ初優勝に導きました。

 

2003年、低迷していた全日本女子チームの監督となり、2大会ぶりにオリンピック出場権を獲得。アテネと北京で5位の成績をあげた後、監督を引退なさいましたが、続くロンドンでの銅メダルは、柳本さんが作られた礎の上に輝いていることは言うまでもありません。また、「柳本ジャパン」のワールドカップでの活躍ぶりは、テレビのゴールデンタイムに放映され、新たなバレーボールファンを開拓するきっかけとなりました。

 

現在は、朝原宣治さんらと設立したアスリートネットワークの代表理事として、トップアスリートの経験と感動を次世代に伝え、スポーツの価値向上と、将来の日本の希望を育む様々な活動をなさっています。

 

ご自身の著書のタイトル「人生、負け勝ち」にあるように、負けの中には次につながる「勝ちの芽」が必ずある、というのが柳本さんの勝負哲学です。波乱万丈の監督人生の中で、先の見えないトンネルからいかにして抜けだしたか、そして、24人中20人が退部?女子マネジメントの苦労話、「信頼はしても信用はしない」の意味など、柳本さんの示唆に富んだお話を、前・中・後編の3回にわたってご紹介していきます。

(2016年1月 インタビュアー:松場俊夫)

 

 

■指導者になられたきっかけは何ですか?

 

初めて監督になったのは新日本製鐵(以下、新日鉄)でプレイしていた時です。当時28歳。最年少監督でした。でも実を言うと、指導者になりたいと思ったことは一度もないのです。

当時の新日鉄は強くて、私たちのチームだけで全日本になれるほどの力がありました。当時の監督、中村祐造さんは八幡製鉄時代には選手として、その後ずっとチームを作って来られた方ですが、同時に全日本の監督もなさっていました。そこで、中村さんが全日本から戻ったらすぐに復帰できるように、八幡製鉄から来られた別の方に監督が任されました。でも中村さんが戻って来られた時、監督をどうするかで問題が生じてしまい、当時、(読売ジャイアンツの)「トロイカ体制」が流行っていたこともあって、一番年上だった私が監督として協力することになったわけです。

まさに青天の霹靂でしたから、今でも忘れられません。監督になった途端、昨日まで一緒にプレイしてきた選手たちが、監督を見る目で私を見ている。どうすればいいのか頭が真っ白になって、冷や汗が流れましたよ。

 

柳本(ネット前)

 

■監督として、まず何から始められましたか?

 

まずはプレイで見せるしかなかったです。一緒にお酒を飲みながら、熱い技術論を戦わせた仲間たちとの距離が開いてしまった気がしていましたから。お互いに何かが違っているのはわかっているのですが、どうやって答えを出せばいいかわからずに苦しみました。ですから、とりあえずやるしかない、と走りまくりました。でも、学校の先生とのおつきあい、運営面の会議など、コート外での仕事も増えていましたから、身体に無理が来ていたのでしょう。リーグの1ヶ月前にアキレス腱を切ってしまい、松葉杖で采配する羽目になりました。その年の結果は2位でしたが、翌年は身体を治して何とか優勝しました。それでもわかりませんでしたね。監督って何なのだろうと。

 

 

■監督というものがわかるまでどれぐらいかかりましたか?

 

当時は作戦タイムでもコートから選手が出て来られない時代でした。ですから怪我をした時、30秒を有効に使うために、松葉杖を置いてコートまで3歩で歩く練習もしましたよ。でも、試合に出られない時間は、冷静にチームを見る時間でもありました。それまでは自分のプレイで見せれば動いてくれると思っていましたが、それは間違いでした。セッターはプレイの中ではコーディネーターのポジションです。それが奪われてしまって苦しかったのですが、何が大切なのかを考えた時に見えて来た気がします。同時に、言葉の大切さ、コミュニケーションの大切さを感じました。ですから怪我をしたことは良かったのかもしれません。

 

 

■新日鉄以降も監督を続けられたわけですが、転機といったものはありましたか?

 

新日鉄は練習量とスパルタ指導、それが伝統でした。松下電器や日本鋼管は日体大出身者などのエリート集団だったのですが、私たちは根性論のみの野武士集団でした。何かあったら酒盛りをしてオー!というような。鉄の職場でしたしね。理屈なんかありません。ミーティングも大きな白い紙に◯を6つ書いてああしてこうして、と実に大雑把でした。壁にぶつかっても追いかけろ、なんておかしいですよね。ですから、練習が辛くて、早く試合がしたかったです。厳しい全日本の練習も楽に感じましたよ。

 

新日鉄の監督を辞任した後、会社から充電期間をもらっていたのですが、その時松平さん(故 松平康隆さん)から話があり、外務省の仕事でタイの代表チームの監督をすることになりました。第13回のシー・ゲームズ(東南アジア競技大会)がタイで開催されることになったのですが、それまでタイは一度も金メダルを獲ったことがありませんでした。

まず指導者の指導を行ってから、チームを見るようになりました。ところが、選手たちは練習前、観覧席とかにゴロゴロしている。集まれ~と言うと、オーと声を出して急にスパイクを打ち出すのです。これはダメだと思いました。朝起こして走らせて、パスからレシーブでつないで、と原点に戻ろうとしたら、それから毎日「日本に帰れ」の大合唱。選手も辞めてしまうし。でも、仲介に入ってくれた方のおかげでトラブルは収まり、ブロック技術などを見せるためにビデオを取り入れたりしているうちに興味を示してくれるようになりました。結果、金メダルを獲ったのですが、そうなったら今度は私を肩車して大絶賛です。その時の教え子たちが今の代表チームを強くしています。当時はとにかくスパルタ指導でした。理不尽があるから伸びるのだ、と譲りませんでしたよ。

 

タイでシー・ゲームズを戦っている時、家に電話したら妻が「日新製鋼に行くことになっているよ」と言うのです。私の知らないところで、日新製鋼の監督就任の話が進んでいたのです。日新製鋼は新日鉄の関連会社で、社長さんは私の仲人さんであり上司でしたから、迷いはありましたが、もう一度やってみようと思い、飛び込みました。新日鉄の幹部からは出向で行けと言われたのですが、骨を埋める気持ちで新日鉄を円満退社し、日新製鋼に移りました。

ところが行ったらビックリですよ。トップは理解がありましたが、地域リーグといってもレクリエーションレベルのチームで、プロパーからは全く協力が得られない。予算がつかない。人が集められない。何を言っても暖簾に腕押し状態。仕方なく私はもう一度選手になりましたが、36歳の私が一番上手というチームで、もう下から作り上げるしかありませんでした。

ところが、選手が欲しいからと高校や大学に行っても、日新製鋼?と見向きもしてくれないのです。新日鉄にいた時には考えられないことです。それに、試合会場には大会役員もいないし、弁当配りや駐車場の整理やチケットのもぎりなどの裏方が一番偉いという世界です。そこに私のような者がポンと入ってしまったわけですから、「柳本つぶし」に遭って、非常に辛かったです。目がさえて、夜、眠れなくなりました。トンネルの中で出口が見えないような状態で、体育館裏の焼却炉で泣きながら酒をあおったこともありました。

結局、一番自分にプレッシャーを与えていたのは、過去の栄光だったのです。ミスは許さないというスパルタ精神。その気持ちとまわりの環境との差に、半年以上悶々としていました。ですが、ある時ふっきれました。何も考えなくなりました。まだ自分は生きている、やるだけやってダメならそれでいいと腹をくくりました。そして、バレーボール部を理解してもらうためのビラ配りと、会社への通勤路と職場の掃除を始めたのです。ヘルメットと作業服、脚絆という姿で、夜勤明けの人たちに自分の思いを伝えようと、毎朝会社の正門に立ちました。煙草の吸い殻を拾った端からまた捨てられる。ビラも捨てられる。職場の机を拭けば、女子社員からきついことを言われる。それでも怖くありませんでした。2年間、一日も休みませんでしたよ。

半年ぐらい経った時、バレーボール部とは関係のない社員の人たちが手伝ってくれるようになりました。やり方はともかくとして彼は本気だ、日本一になった男だからちょっと違うんじゃないか、と思ってくれる人が増えて来ました。そして3年後、日本リーグに昇格することができました。

その時、思いました。私は、過去を引きずることで、それがプレッシャーになって、今を大事にしなければならないのに割り切れずにいたのです。その心境になるまでは、人を恨んだりしたこともありました。でも会社で仕事させてもらいながら、あのような経験ができたことを感謝しましたよ。おかげでわかりましたしね。

まわりを変えようと思ったら、自分が変わらなければ何も変わらない」ということを。 (中編に続く)

(文:河崎美代子)

 

 

 

*柳本晶一さん プロフィール

 

生年月日 : 1951年6月5日

出身 : 大阪府大阪市

元バレーボール選手(元全日本代表)

2004年アテネオリンピック・2008年北京オリンピック

バレーボール全日本女子代表監督

身長 : 182㎝

 

略歴

1970年 : 大阪商業大学附属高等学校卒業後、帝人三原入社、

第2回実業団リーグ出場

1976年 : モントリオールオリンピック4位(全日本男子)

現役時代はセッターとして活躍する。

1980年から監督兼任。1991年選手を引退し、監督専任となった。1997年、Vリーグ女子・東洋紡オーキス監督に就任し、就任2年目でVリーグ初優勝、日本リーグ時代を通じて初めて、自分の指揮する男女チームを優勝させた。

2003年2月 : 全日本女子チーム監督に就任し、低迷していたチーム復活の立役者としてアテネ・北京、2大会連続でオリンピックへと導く。著書に『人生、負け勝ち』(2005年幻冬舎刊)

2010年 : 関西を拠点に五輪出場経験者らで「アスリートネットワーク」を立ち上げ、次世代にスポーツの魅力を伝えていく活動を始める。

 

監督就任時代の全日本女子チームの成績

2003年 : 2003ワールドカップ5位

2004年 : アテネオリンピック5位

2005年 : 第13回アジア女子選手権大会3位

2006年 : 第15回世界選手権6位

2006年 : 第15回アジア競技大会2位

2007年 : 第11回ワールドカップ7位

2007年 : 第14回バレーボールアジア女子選手権大会優勝

2008年 : 北京オリンピック世界最終予選兼アジア大陸予選3位(出場権獲得)

2008年 : 北京オリンピック5位

 

☆一般社団法人アスリートネットワーク

http://www.athlete-network.jp/

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